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〈高句麗の豆知識-F〉 薩水の大勝利

高句麗の鎧馬武士(朝鮮大学校 朝鮮歴史博物館)

 乙支文徳の読みはずばり的中した。

 いくら攻めてもビクともしない鳳凰城、そこに届いた文徳の漢詩(「神の如き策は天文を究め、妙なる戦術は地理に通じ、戦功はすでに高し、これに足りて帰られんことを願う」という意味のもの)に、兵を退く口実を得た隋軍は兵を退き始める。文徳のすばらしい心理作戦だ。

 隋軍の撤退を見て高句麗の将たちは追撃を主張する。しかしこの時、文徳は、すでに必勝の決戦を準備していた。

 薩水の河を渡河する時こそ決戦であると定めていた。20日前後の戦闘のない道を引き返す隋軍には油断があった。一方、薩水では高句麗軍の伏兵が待ち受けている。

上流をダムで堰き止め、両岸に兵を伏せておく。

 河に辿り着いた隋軍は、陣形を崩して河を渡り始めた。30万の軍勢の半ばが渡りきる頃、ダムは決壊され奔流が隋軍を押し流す。算を乱す隋軍に高句麗軍から雨のような矢が射かけられる。

 名高い薩水の大勝利だ。

 「隋書」は、「九軍遼河を渡り、およそ30万5千人、遼東城より帰り極に及び、ただ2千7百人」と素っ気なく記している。

 「三国史記」には「はじめ、九軍が来たときは、30万5千人であったが、還るときには遼東城に着いた者は2千7百人に過ぎなかった。備えた器械は巨万をもって計るほどであったが、それらをすべて失い、すっかり使い果たした。煬帝はたいへん怒って、宇文述らを鎖に繋いだ」と、大勝利を誇らしげに記している。

 大敗の将、宇文述が死を免れたのは、息子の宇文士及が煬帝の娘の南陽公主の夫であったからである。

 「日本書紀」には推古26年(618年)条に高句麗の者が「隋の煬帝は300万の兵を興して我を攻めたが、かえってわがために撃破された。それゆえ捕虜の貞公、普通の2名、および太鼓、笛、弩、投石機の類10機、あわせて我が国産品と駱駝一匹を貢献する」と高句麗の戦勝が知らされている。

 7世紀の東アジアは、高句麗の大勝利をきちんと認識している。

しかし現在の日本学校の教科書は、聖徳太子が遣隋使を送って対等外交をしたと大書特筆している。史実に対する恣意である。

 ところで、薩水河はどこなのか。

 中・南・日では、清川江が定説になっているが、朝鮮の歴史学界は中国遼寧省の哨子河説をとっている。(金宗鎮、在日本朝鮮社会科学者協会東海支部会長)

[朝鮮新報 2011.2.4]