〈渡来文化 その美と造形 40〉 書A 国宝の書 |
百済豊虫という渡来人が8世紀中葉の日本にいた。姓が「百済」であるのは、出自の国が百済であったからである。 「百済王」とか「百済朝臣」、「百済公」などの著名、有力な貴族の姓ではなく、ただ「百済」とのみ名乗る豊虫との同時代人は6人ほどで、彼らはほとんど技術系の下級官人たちである。 百済豊虫の名が史上に伝わるのは、彼が天平宝字6(762)年2月8日、両親のため発願し書写した「金光明最勝王経」が現存するからである。 彼がいた時よりも71年前の持統天皇6(691)年9月、「…書博士百済末士善信に、銀…20両賜う」とある。 書博士は従7位上に相当する官職で、下位ではあるが貴族であった。「書博士」は「てかき=手書きのはかせ」と読む。つまり、「書のプロフェッサー」なのであった。豊虫はこの書博士であった善信と深い関わりがあったように思われる。 豊虫の書写した「経」の書体は実に端正で、研究者によれば、「筆勢のある力強いものであるが、全体として幾分やわらかな印象を受ける」とある。 この経の末巻に願文があって、豊虫はこの時、本経と同時に「法華経」1部8巻・「金剛般若経」1巻・「理趣経」1巻・「本願薬師経」1巻も書写したが、残念ながら伝存しない。 唯一現存するのはこの「金光明最勝王経」のみで、国宝に指定されている。 国宝に指定されるほどの書を残した百済豊虫であるから、書博士善信が彼(彼女かも)の祖父か曽祖父であった、と書きたい所だが、それを証明すべき資料はない。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表) [朝鮮新報 2011.1.31] |