top_rogo.gif (16396 bytes)

〈渡来文化 その美と造形 39〉 書@ 渡来人経師

秦東人の筆跡(749年、正倉院文書)

 奈良時代(ほぼ8世紀)の日本仏教は、すべての災いから国土を守るという鎮護国家の役割が非常に大きく、東大寺を筆頭に、全国に国分寺、国分尼寺が創建され、鎮護国家の祈願が盛んに行われた。

 それに伴ない仏教経典の需要が大量に増大した。しかし現代のような印刷技術はない。そこで写経所という経典書写を目的とする中央官庁が設置され、やがては貴族たちの私的施設も成立するに至った。

 おおむねそれらの施設は経師(写経する能筆者)、校生(校正者)、装(装丁者)らで組織され、その上に事務担当の別当、案主が置かれた。

 ところで、奈良時代の経師でその名前が古文書で確定できるのは837人いる。すべて、美しい字が書けるかどうかのテストに合格しなければならなかった。

 天平20(748)年4月付の古文書に経師31人の本籍地、年齢そして在職年数が記されていて、近畿地方出身が圧倒的に多いが、遠地では信濃国(長野県)、常陸国(茨城県)、上総国(千葉県)、下総国(千葉県)、美濃国(岐阜県)、伊予国(愛媛県)などがあり、最年長は50歳、年少で18歳、最高の在職年は10年ということが知られる。

 さて、先ほどの経師837人のうち朝鮮からの渡来人経師が331人にのぼり、その比率は約40%を占めるほど高い。

 その渡来人経師の中でも秦氏(新羅系)は51人(15・4%)と群を抜いて多数を占める。奈良時代、秦氏は日本全国に分布するほどであったから、経師として多くが登場するのも当然と言えよう。

 これら秦氏をはじめとする331人の経師たちが、日本古代の仏教史上、「書」の歴史上大きな役割を果たしたことは、彼らの写経の現物が千数百年を経た今でも多数存在することから知ることができる。

 一例のみ紹介する。感宝元年(749)潤5月7日に、秦東人が「花厳経料紙を受取り、東人ほか4人の装に允当した文書」である。

 1262年も前に書かれたサインも鮮明な文字を眼前にするというのはオドロキですらある。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表)

[朝鮮新報 2011.1.24]