〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち24〉 女性宮廷画家−洪天起 |
「常識」を超えた活躍 「絶世の美女」
15世紀の野譚集「慵齋叢話」(成俔〈1439〜1504〉著)には、女性宮廷画家洪天起についての記録がある。 「絵師洪天起は女性である。容貌の美しさでは一時彼女に敵う者はなかった。ちょうどある事件で司憲部に出頭し裁判を受けることになった。達城(号)徐巨正が(まだ)若い頃で、同輩たちと共に弓を射たり、集まり酒を飲んだりして、やはり捕まっていた。徐巨正が洪天起の傍らに座り、(彼女に)目をやると、一瞬たりとも目を離すことができなかった。その時、相公南智が大司憲であった。(彼が)すぐに言った。『儒生に何の罪があろう。すぐに釈放せよ』解かれた徐巨正は同輩たちに言った。『公務の処理がなんとお手軽なのだ? 当然犯人の言質を取り、また告訴状を受け、正否を明らかにするために丁寧に事を運ぶべきなのに、なぜこんなにお粗末なのだ』ただ、彼女の側に長くいられなかったことを悔しがってのことだった。同輩たちはこれを聞いてからかい、笑った」(畫史洪天起女子。顏色一時無雙。適以事詣憲府推鞠。徐達城少時隨羣少射的聚飮。亦被拿去。達城坐洪女傍。屬目不暫轉。時南相公智爲大憲。乃曰。儒生何有罪。其速放之。達城出謂儕輩曰。是何公事之μ遽乎。公事當訊犯人之言。又受考辭。分辨曲直。當徐徐爲之。何勿遽如是。蓋恨不久在洪女之側也。儕輩聞之齒冷) 洪天起(生年没日不詳、15世紀?)は従七品の位にあり、絶世の美女だと記録されている。山水画に秀で、崔渚や安貴生らと共に圖畫(図画)署で働いたという。 圖畫署の仕事 圖畫署とは宮中の画事全般を司り、宮殿などを飾る装飾的な壁画と国王や大臣の肖像画を制作し、また宮中のさまざまな行事の記録画を描き、さらにデザイナーのように国王以下官吏の制服のデザインまで手掛けた役所である。圖畫署は、政府の機関としては最下級の役所であったが、朝鮮王朝時代には国初から圖畫署が設置され、肖像画、記録画、山水画、花鳥画など、絵画各分野に渡って大きな役割を果たしたと思われる。 圖畫署にはいろいろな階級の画員がたくさんおり、たとえば提調が1人、別提が1人、従六品の善画が1人、従七品の善絵が1人、従九品の絵史が2人、画員が20人、その他いろいろなデザインをする者などが特別に2、3人加えられていたと記録にある。圖畫署の長官は提調といい、今で言えば法務大臣に当たる礼曹判書が兼任するのが常であった。たとえば、従六品とは今で言う県知事ほどの位だが、女性である洪天起の従七品は破格だと言える。
ドラマの中の女性画家
ドラマ「イサン」には、圖畫署の茶母(雑用をする事務員みたいなもの)であったヒロインが差別を乗り越え宮廷画家になろうとする過程が描かれるが、ストーリーは王との恋愛により比重を置いて描かれる。 ドラマ「風の絵師」や映画「美人画」には、女性であることを隠し男性として絵師になり、その才能を発揮するが、悲劇的な人生を歩まざるを得ない悲しいヒロインとして描かれている。「女は圖畫署員に絶対になれない」というセリフが何度も登場する。 メディアのこのような描き方を通して、多くの人は朝鮮王朝時代には女性宮廷画家はいなかったという印象を受けたはずだ。だが、妓生であった女性が貞敬夫人になり、一介の主婦が百科事典を書き残し、10代の若い娘が金剛山遊覧の旅に出て後に見聞録を書き残す、といった歴史的事実は、現代人であるわれわれの「常識」をいとも簡単に飛び越えてしまう。 成俔の「慵齋叢話」には、「驚きを持って」女性画家を紹介するというニュアンスは感じられない。もし宮廷画家に「女は絶対になれない」のなら、洪天起のことは事件ですらあったはずだ。 だが、成俔の同時代の文人たちも、以降の文人たちの誰も彼女について書き残してはいない。詩集を出しただけで社会的にバッシングされた時代である。なぜだろうか。 ドラマ「イサン」は18世紀のお話だが、洪天起が生きた時代はほぼその300年前である。惜しくも彼女の作品は発見されていない。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者) [朝鮮新報 2011.1.14] |