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〈ハングルの旅 4〉 創製にまつわる数々の記録

なぜハングルを創ったのか?

 誰が、何のために、いつごろからハングルを創ろうと考えたのか? これに関する明快かつ詳細な記録はほとんどない。しかし、手がかりがまったくないわけでもない。

 1428(世宗10)年に訓民正音を創製しようとする意図を見て取れる記録がある。それは1431年に世宗が集賢殿の副提学であるy循に命じて作らせた「三綱行實図」という本の刊行と関わる事項である。

 「三綱行實図」は、儒教の道徳書で君臣・父子・夫婦間で守らなければならない道理を朝鮮と中国の忠臣・孝子・烈女をそれぞれ35人ずつ、合わせて105人を選び絵と漢文で説いたもので1434(世宗16)年に刊行された本である。この本は1481(成宗12)年に忠臣・孝子・烈女を35人に減らし初めてハングルに翻訳して刊行された後、1511(中宗6)年、1516(中宗11)年、1554(明宗11)年、1606(宣宗39)年、1729(英宗5)年にもそれぞれ重版され道徳書として活用された。



「三綱行實図」

 1428年に慶尚道晋州に住んでいた金禾という者が父親を殺害するという事件を起こすが、これに大きな衝撃を受けた世宗が「世の中の風俗が乱れて子が子としての本分を果たさない者もいる。孝行録を作りこのような愚かな民を教えなければならない」と言ったという。

 「三綱行實図」は、孝行を奨励する本を刊行して民に読ませるという趣旨で1431年に集賢殿の副提学であるy循に命じて作らせた本である。この本は1434年(世宗16)年に刊行されるが、この時期に世宗は、「漢文は民が習いにくいので、簡単に習い、読んで書くことができる文字があれば良いのだが」と言っている。

 漢字を読むことのできない民が、絵だけでは十分意味を理解することができないだろうと文字を知らない民を憐れに思ったのであろう。これが、簡単に習って使える文字の創製の必要性についての世宗の最初の言及であると思われる。

 そして10年後の1443年、訓民正音の序文で世宗は「わが国の言葉は中国とは異なって中国語を表記する漢字と互いに通じないので、漢字の読み書きができない民は、言いたいことがあってもその意を述べることのできないものが多い。予はこれを憐れに思い、新たに28字を作った。人々が簡単に習い、日々用いるのに便利にさせたいからである」と言ったのである。

 世宗は訓民正音を創った時、「三綱行實図」の漢文をハングルに翻訳して刊行しようとしたが臣下の反対にあって、ハングルによる「三綱行實図」の刊行を実現することができなかった。1481(成宗12)年になってようやくハングル版「三綱行實図」が日の目を見ることになる。世宗の命によるハングルによる「三綱行實図」の刊行すら、臣下に反対されて刊行事業を中断せざるを得なかったということは、新しい文字の創製がいかに難しい事業であったかを物語っている。



「農事直説」

 世宗が民を憐れみ、いかに思いやったかを見せてくれる別の記録がある。

 1932年陰暦11月7日の記録を見ると、「たとえ物事の道理が分かる人でも、法律を知ってこそ罪の軽重が分かるようになるのに、ましてや愚かな民がどうして犯罪の軽重を判別して自らを正せるだろうか。たとえ民に法を分からせることができなくても、大きな罪の条項だけでも抜き出し吏読に翻訳して民間に頒布し、彼らが罪を犯さないようにすることが道理ではないのか」と臣下に話したことが記録されている。このように世宗は民を教えるために色々な努力をした。

 そして「三綱行實図」だけではなく「農事直説」などに絵を描き、吏読に翻訳もした。また世宗は法律を知らないために罪を犯す民がいることに心を痛め、そのようなことがないようにするため法典を作ったりもした。しかしこのような方法も世宗が思うところに到底及ばなかったことが、世宗を朝鮮語に適合した新しい文字の創製へと向かわせたのであろう。

 こうして見ると、ハングルを創ろうとしたのは民を憐れむ世宗の優しい心であったと思わずにはいられない。

 そして上述した内容が事実だとすれば、世宗による発案から創製までの期間は10年から長くて13年ほどだと思われる。そうすると集賢殿の学者たちが世宗の発案当初からハングルの創製に関わっていたという主張には、集賢殿の学者が文科に合格した時期や年齢を考えてみてもつじつまが合わないようだ。たとえ集賢殿の学者たちが文字の創製に直接関わったとしても、おそらくそれは訓民正音の完成段階だっただろう。

 それでは果たして誰がハングルを創ったのか? やはり世宗の単独説が大きくクローズアップされそうである。(朴宰秀 朝鮮大学校朝鮮語研究所所長)

[朝鮮新報 2011.5.13]