東北各地から 茨城初中高に入学した生徒たち |
10日、茨城初中高で行われた入学式の会場には、被害がもっとも深刻な宮城県から子どもを送る保護者や、福島第1原発の問題が緊迫する中、福島県に残る両親を案じる新入生の姿があった。被害を受けた打撃は深かったが、それでも季節はめぐり春がやってきた。そこに、希望の一歩を踏み出そうとする人々の笑顔があった。
宮城から茨城へ 「どこに行っても、きっと大丈夫」
「余震がひんぱつし、福島第1原発の問題も落ち着かない。被災地の茨城県もまた、安全な場所とは言い切れない」。そう話すのは、先月27日、東北朝鮮初中級学校中級部を卒業した趙理瑛さんの母・金明順さん(47)だ。 理瑛さんは今春から高級部1年生。茨城初中高の寄宿舎で新生活をスタートさせる。 入学式を翌日に控えたこの日、理瑛さん一家は、東北初中を出発し茨城初中高へと向かう送迎バスの中にいた。 送迎バスは、茨城初中高が宮城県に暮らす新入生や保護者たちの交通手段を気遣い用意したもの。雨の降りしきる中、バスが目的地に到着すると、在校生や教員一同が拍手で迎え入れた。 その様子を見ていた明順さんは、「こんな時に家族が離れ離れに暮らすことへの不安はもちろんある。でも、ウリハッキョならきっと大丈夫だと思う」とほほ笑む。 中級部時代、日本学校への進学を希望していた理瑛さんは、3年間ともに過ごした同級生たちに背中を押され、卒業間近になり茨城初中高へ進学する意思を固めた。 自身は、朝鮮大学校を卒業した明順さん。娘が進路問題で自分なりの結論を出すまで、「口出しはしなかった。私がよく知っているウリハッキョに通ってくれたら安心、そういう思いだった。でも、今回の震災体験で、よりいっそう民族教育を受けさせたいと思うようになった」。 理瑛さん一家の自宅は、仙台市からバスで1時間ほど北上した黒川郡大和町にある。地震発生当時、明順さんは、同地で夫の趙明寿さん(51)が兄と経営している飲食店で仕込み作業を行っていた。 激しい揺れを感じた直後、従業員とともに店外へ飛び出したため身体は無事だったものの、食器はめちゃくちゃに割れ、店内は散らかり、すぐには営業再開の見通しが立たなかった。 間もなくして東北初中にいた2人の娘、理瑛さんと妹の潤華さんの安否が確認できたが、自宅がある4階建てのアパートは、大震災とたび重なる余震により、正面の道路がゆがみ、いつ崩れるかわからない状態だった。 一家はより安全な場所を求め、すぐさま経営している飲食店の2階にある限られた居住スペースに親せき一家とともに身を寄せた。震災直後、電気、水、ガスなどのライフラインはすべて遮断されていた。いつ自宅に帰れるのかもわからない不安の中、家族は寄り添うようにして過ごしたという。 数日後、そんな一家のもとを訪ねたのが、総連緊急対策委宮城県本部のメンバーだった。 明順さんは、当時の様子を振り返り、「安否確認と合わせて、食料を一緒に届けてくれた。突然の訪問に驚いたけれど、本当にありがたかった」と話す。 震災から約2週間後、東北初中の卒業式に赴いた明順さんは、そこでさらに驚くような光景を目にした。 会場となった食堂には、壁一面に「私たちは一つ!」「共に困難を乗り切ろう!」など、日本各地の同胞が被災同胞に向けて送った応援メッセージやスローガンが掲げられていた。また、所狭しと積まれていた大量の救援物資や、困難な中で行われる卒業式を共に祝おうと駆けつけた人々、記念品の数々を目撃した。 被災地であるにもかかわらず、たくさんの愛情と祝福の中で卒業式を迎えた娘の姿を見て、再び胸が熱くなるのを感じたという。 理瑛さんは卒業公演で、同胞たちの支援に感謝の言葉を述べ、これからもウリハッキョで学び、力強く生きていくと決意を表明した。 「同胞社会は、やはり温かい。普段は見えにくいけれど、一つにつながっているのだとあらためて感じた瞬間だった」と明順さん。その経験が、娘を茨城初中高へ送る明順さんの背中を押しているという。 「理瑛と離れて暮らすのは、もちろんさびしい。心配もつきない。だけど日本各地には、同胞社会がある。茨城にも、この子をしっかりと受け止めてくれる同胞や教員がいる。どこに行っても、きっと大丈夫。今回の震災でそれを確信した」
福島から茨城へ 「がんばる両親の分まで」
入学式の会場には、福島朝鮮初中級学校を卒業し、茨城初中高で10年目の寄宿舎生活に突入した尹成銖さんの姿があった。同校には、2つ年上の兄、永銖さんがいる。 「兄もいるし、学校生活への不安はとくにない。茨城初中高ではサッカー部に入って、思いっきり練習に励みたい」 それでも、ただ一つ気がかりなことがあるという。 「現在も、福島県に暮らしている両親のこと。原発の問題がある。心配でないといったら嘘になる」と成銖さんは話す。
成銖さんの自宅は、福島初中のある郡山市にあり、問題となっている原発からは、55キロメートルほど離れている。政府の避難指示範囲である20キロメートル圏内ではないが、「政府発表も2転、3転しているし、大型の余震も続いている。もしものことがあったらと思うと、不安。何かあればすぐに逃げてほしい」と胸のうちを明かす。
震災直後、成銖さん兄弟は、親せきの暮らす長野県松本市に移り、2週間ほど同地で避難生活を送っていたが、福島で仕事を続ける両親や知人たちのことが心配で、もどかしい思いが募ったという。 一方、それぞれ福島県下の総連、女性同盟の専従活動家を務める成銖さんの両親は、現在に至るまで同胞の安否を確認したり物資を届けたりするために、不眠不休で同胞たちを訪ねる日々を送っていた。 時折電話した際にも、両親は息子たちに不安の色を見せることはなく「大丈夫。どうにかなる。延期になっていた卒業式も例年通りするよ」と言い聞かせたという。
震災により被害を受けたうえ、現在も原発の放射能問題などに不安を抱えている福島同胞のために、弱音ひとつ吐かず復興活動に取り組む両親の背中を、成銖さんは見てきた。
「専従活動家はただでさえ困難な仕事。震災でさらに状況は大変なのに、どんなときにも希望を持ち続け、決して屈しない勇気を持ってがんばっている。そんなアボジ、オモニはすごいと思うし、尊敬もしている」。 この日、新入生たちは会場に駆けつけた家族をはじめ関東、東北を中心とするたくさんの同胞、関係者の祝福を受けた。 「大変な状況の中でも、両親が自分をウリハッキョに送ってくれたのは、きっと朝鮮人として立派に育ってほしいから。その恩を返すためにも、今、自分にできることは茨城初中高で一生懸命勉強することだと思っている」と成銖さん。夢は、朝鮮学校の教員になることだという。(文・周未來) [朝鮮新報 2011.4.20] |