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〈ハングルの旅 3〉 世宗の非凡さ

創ったのは誰か?

世宗(金学画)

 1443年に創られた文字体系としての訓民正音(ハングル)は北南とも一般的に、世宗の命により集賢殿の8学士たちが創製したものとされている。はたして本当に8学士によって集賢殿で訓民正音が創製されたのだろうか。今回はこれについて見てみることにする。

 これに関して述べるには、訓民正音の創製過程をみる必要があるだろう。

 朝鮮では王の言動や王朝で起こったことを事細かく記録に残している。ただどうしたことか、訓民正音の創製過程についてはほとんど記録がない。なぜだろう。

 それでもその手がかりらしきものはある。これについて「世宗実録」や「訓民正音解例本」など、当時の文献を検討しながら見ることにする。

 まず「訓民正音解例本」(1446年)の冒頭の序文で、世宗自らが「…予はこれを見るに忍びなく、新たに28字を制ったので…」。と書いている。また同じ本の後にある鄭麟趾の序文には、「世宗25年(1443)の冬に、殿下は正音28字を創製され、例義を簡略に示された。…」と記している。

 また、「世宗実録」に初めて「訓民正音」の名前が登場する102巻25年(1443)12月30日の2番目の記事「訓民正音を創製する」の項にも、「この月に王が自ら諺文を創られたが…」という記録がある。

 成三問の著書「直解童子習」の序文にも、「訓民正音を創られたのは世宗と文宗である」と記されている。文宗とは、第五代目の王で世宗の第一子である。

 当時、その他のどの本にも集賢殿の学者が創ったという記録は見当たらない。

「世宗荘憲大王実録」

 世宗が王だからそのように記したという意見も多い。しかし「世宗実録」を見ると、世宗時代の測雨器や日時計、火薬の発明、法典の整備、雅楽の整理などが世宗の指示・監督で作られているが、世宗の名ではなくすべてその功労者の名を明かしている。このように、他のものはその功労者たちを明らかにしているのに、「訓民正音」だけは世宗が創ったと記されているのである。これをどう理解するべきかという問題が私たちに突きつけられている。

 次に8学士の当時の状況を見てみよう。

 成三問は1438年、20歳で文科に合格し集賢殿の学士となり、申叔舟は1439年、22歳で文科に合格し1441年に集賢殿の副脩撰となった。申叔舟は1443年に日本への通信使の書状官となって随行している。こうして見ると、訓民正音の創製において中心的役割を果たしたと言われる彼らが28文字の訓民正音を創るのに直接関与したとしても、その期間があまりにも短い。ましてや申叔舟の場合、1441年に集賢殿の学士となり1443年に日本に行っていたので、訓民正音の創製に関与したとしても1年ほどしかなかった訳だから中心的役割を果たすことができただろうか。

 鄭麟趾は1427年に集賢殿の直提学になったが、崔恒と朴彭年は1434年に、姜希顔と李は1441年に集賢殿の学士になった。(李善老は不明)集賢殿の学士になった後、この期間に訓民正音を創ることは可能だったのだろうか。

 このように見てみると、28字の「訓民正音」は世宗が創り、集賢殿の学者たちはあくまで文字として創られた28字の「訓民正音」を世に広めるために、解説書である「訓民正音解例本」の編さんや、その文字を使っていろいろな本を出したという主張も根拠があるように思える。

 しかし反面、8学士が「訓民正音」の構造原理を知らなかったとするなら、「訓民正音解例本」などを編纂することはできなかったはずだという意見も依然として根強い。 世宗一人で「訓民正音」を創製することは無理だという主張である。

 訓民正音の研究と活用に最も寄与した集賢殿の学士は、申叔舟と成三問である。彼らは遼東半島に流配されていた明国の言語学者・黄瓉もとに13回も通い、音韻学についての研究を深めたという。ところが、彼らが初めて遼東半島に行った年は1445年1月だという。訓民正音が完成した2年後のことである。彼らが黄ュ≠フ所に通ったのは朝鮮語の漢字音を整理するための知識を得るためであった。

 次に、親製説に世宗の非凡な学問的叡智を挙げる学者が多い。

 例えば、副提学・崔万理をはじめとする集賢殿の7人の長老学者の連名による上疏文(世宗26年・1444年2月庚子条)を読んだ世宗が、創製と公布に反対する崔万理に対し、「あなたがたは韻書の何たるかを知っているのか。あなたがたは四声、七音といったものを知っているのか。字母はいくつあるのか」そうしたことを知った上で「訓民正音」の批判をしているのかと問い詰めている。「韻書」とは漢字音を整理した字書のことである。世宗が音韻学に関して広く深い知識を持っていたことを物語っている。だからこそ、当代最高の学者を相手にここまで自信を持って問い詰めることができたのだろう。

 このような事実などから、世宗は当代随一の音韻学の権威者であったので、一人で「訓民正音」を創ることができたと言うのである。結論は読者の見識にお任せしよう。

 次回は、なぜ世宗が「訓民正音」を創ろうとしたのかを追うことによって世宗の人物像に迫ってみようと思う。(朴宰秀 朝鮮大学校朝鮮語研究所所長)

[朝鮮新報 2011.4.7]