東日本大震災 被災地出身の朝大生たち |
「心はいつも東北に」 強い連帯感で支え合う 今月5日、茨城朝鮮初中高級学校を卒業した韓昇浩さんは、11日朝、実家のある宮城県多賀城市を発ち、東京へやってきた。1泊2日の一人旅。新宿に降り立ち、秋葉原へ向かおうと駅のエスカレーターに乗った時だった。「ガタガタガタ…」−午後2時46分、突如、エスカレーターが大きく揺れた。地震だった。震源地は宮城県沖。地元が、大地震と大津波に見舞われていた。旅程は一変した。多賀城市に住む家族とは当日中に連絡が取れ安否を確認できたが、震災の影響で帰路につけなくなった。行くあてもなく、一人で心細さを抱え、漫画喫茶で時を過ごし野宿も経験した。 震災発生から7日目、韓さんがツイッター(ミニブログサービス)上で自身の状況をつぶやいているのを同郷の先輩である洪鍾勝さん(朝鮮大学校・理工学部3年)が偶然、見つけた。「朝大に来い」とメッセージを送った。
「本当の兄弟のように」
卒業式(10日)、終業式(13日)を終えた後も朝大に残っている東北・北関東出身者がいる。東北朝鮮初中高級学校(当時)と茨城初中高出身の在学生、卒業生約30人は東日本大震災の影響により、帰省することが困難な状況だ。 そのうち、約半数は親せきや知人宅を頼り、あとの半数は朝大で生活している。すべての学生が家族の安否を確認しているが、交通網の混乱をはじめ、実家のライフラインが途絶えていたり、家族が避難しているケースもある。 学生たちは、日中は各自の部屋などで過ごし、夜は男女別に集まって床につく。「計画停電」の時には、食堂など一カ所に集まり一緒に過ごすようにしている。朝大側も彼らに不便のないよう、食事や施設運営などに最大限の努力を尽くし対応している。 東北、茨城朝高出身である彼らは、朝高時代から学校同士の交流が深く、とりわけ仲が良い。みんなが不安を抱えながらも、互いに思いやり、支え合って日々を過ごしている。 朝大に留まっている学生たちの中で責任者を務めている金玄徳さん(文学歴史学部3年)の家族は、茨城県水戸市に住んでいる。両親と毎日連絡を取っているが、「こっちの心配はしないで、朝大でがんばれ」と逆に励まされたという。金さんは、「こんな状況下でみんな家に帰れず、不安が大きいと思う。少しでも元気づけられるよう、本当の兄弟のように親身に接するよう心がけている」と明るく語る。 福島県出身の具春実さん(外国語学部1年)は17日に誕生日を迎えた。当日、先輩、友人たちから祝福を受け、「みんなが不安であるこんな時にも、気づかってくれてありがたい」と、驚きと喜びを隠せずにいた。初級部1年から寄宿舎生活を送る具さんにとって、春休みは年に数度の帰郷の機会である。具さんは、「帰れないもどかしさよりも、家族や知人、同胞たちが心配。今は物資で救援することぐらいしかできず心苦しいが、東北の同胞たちと同じ気持ちでがんばりたい」と力強く述べた。
「できることは何でも」
6日間、東京で「放浪生活」を余儀なくされた韓さんに手を差しのべた洪鍾勝さんもまた、宮城県出身。実家は地震によって傾き、暮らせる状態にない。家族は空いていた別の住まいに身を移すことができた。「今すぐにでも地元に駆けつけたいが、何もできないのが歯がゆい。しかし、心は東北にある。厳しい状況だと思うが、同胞同士助け合いながらがんばってほしい」と、胸の内を語る。 10日に理工学部を卒業した黄聖和さんと妹の聖喜さん(経営学部2年)は、福島県出身。卒業式に参加していた母と妹はその日、東京に宿泊し、翌日の震災により地元に帰れなくなった。実家のある郡山にいた父と祖母は無事だったが、いまは会津や新潟などを転々としながら避難生活を続けている。父が経営する遊技業店も福島と宮城にあり、経営が困難な状態だ。 聖和さんは、「家族がばらばらで淋しい。原発問題などもあり、家族のみならず、福島の同胞社会が今後どうなるのか…」と不安を口にしながらも、各地同胞からの救援の話を耳にし、「同胞の団結力は強い。困難なときこそ、同胞たちの力が大きいことを実感する」と語った。 聖喜さんは、「自分自身が大変なときでも、総聯の活動家たちは同胞の安否を確認するため各地を訪ね回ったり、救援活動に尽力している。私も朝大で学ぶ一人として微力ながら、できることは何でもしたい」と話した。 一方、先輩に招かれ朝大に落ち着いた韓昇浩さんは、今も仲間と暮らしている。 「連絡してくれた先輩、温かく迎え入れてくれた朝大に感謝している」と安堵の表情を浮かべる韓さんは、4月に朝大教育学部音楽科に進学する予定だ。一日も早く自宅に帰って家族と会いたいというが、そのまま入学式を迎える可能性もある。「それでも大丈夫。新入生のみんなより先に朝大から愛をもらった」と気丈に話していた。(裕) [朝鮮新報 2011.3.25] |