〈ハングルの旅 2〉 朝鮮の若き頭脳集団 |
ハングル創製の8学士
世宗時代の最も優れた業績は訓民正音の創製であろう。この新しい固有文字の創製によって、朝鮮民族は初めて自分の意思を自由自在に書き表すことができるようになった。 「訓民正音」という名称は、1443年の陰暦12月に創製された文字と、1446年の陰暦9月に新文字に関する解説書として編さんされた「訓民正音解例本」の二つがあるということは前回述べた。 「訓民正音」のように新しい文字を創って、その解説書を編さんした例は他では見られない非常にまれなことである。 それではこの新しい固有文字と、新文字に関する解説書は誰が完成させたのか。 この二つの内、解説書としての「訓民正音解例本」を編さんした人物については朝鮮王朝実録の中の「世宗実録」113巻28(1446)年9月29日の記事にある鄭麟趾の序文で明らかにされている。
鄭麟趾は序文の中で世宗の命により崔恒、朴彭年、申叔舟、成三問、姜希顔、李、李善老の8人ですべての解説と凡例を執筆したと明らかにしている。
「訓民正音解例本」は「例義・解例・鄭麟趾序文」など3部分33章からなっているが、例義は世宗が直接書き、解例は上記の8人の学者たちが執筆した。鄭麟趾が代表として書いた序文には1446年上旬と公布日が明記されている。 世宗は「訓民正音解例本」を編さんするために「集賢殿」の学者たちを動員した。「集賢殿」とは高麗時代に設立された学問研究機関であるが、高麗末より実質的に機能していなかった。これを世宗が1420年に前途有望な若い学者たちを集めて、朝鮮王朝最高の頭脳集団の機関として再生させた。「集賢殿」に集められた人材は最初10人であったが、その後20人で構成された。 朝鮮王朝の官職は、正一品から従九品までの18階級であった。「集賢殿」の頂点は領殿事という職名で正一品である。その下が大提学(正二品)、提学(従二品)、ここまでは兼任の名誉職である。集賢殿には副提学(正三品)以下の直提学(従三品)、直殿(正四品)、応教(従四品)、校理(正五品)、副校理(従五品)、脩撰(正六品)、副脩撰(従六品)、博士(正七品)、著作(正八品)、正字(正九品)がいて各分野の研究に携わっていた。 世宗によって「集賢殿」に集められ、「訓民正音」の編さんに参加した若き精鋭たち8人の1443年の「正音」創製時での官職名と満年齢を見てみよう。 鄭麟趾(정린지)集賢殿副提学(正三品)。47歳。 このとき世宗は46歳である。 人類史上において、新しい文字の創製と解説書の編さんというとてつもない大事業に直接参加し、音声学、音韻学をはじめ人類文化の発展に大きな貢献をした人物が、鄭麟趾を除いていずれも20〜30代という朝鮮の若き頭脳集団であったことに世界は驚いている。ちなみに20世紀言語学の基礎を作り、人文諸科学に多大な影響を与えたスイスの構造主義言語学者、フェルディナン・ド・ソシュール(1857〜1913)やポーランドの構造主義言語学者ボードアン・ド・クルトネ(1845〜1929)が、20世紀に入りようやく辿り着いた音韻論の方法を、訓民正音創製者たちはすでに15世紀に築きあげていたのである。 鄭麟趾と申叔舟は後に、官僚の最高位である領議政(今の首相に相当)になっている。また世宗の命で成三問と申叔舟は、遼東半島に流刑されていた明国の有名な言語学者、黄ュ≠フもとに何度も通い、音韻に関する研究を深め訓民正音の創製に中心的な役割を果たした。 一方、一般に文字体系としての「訓民正音」は世宗と集賢殿の学者たちが共同で創ったもの、または集賢殿の学者たちが創って世宗が後押ししたものとして広く知られている。これに対して、近年はたしてそうなのだろうかという疑問が投げかけられている。 「訓民正音」(文字)の創製において世宗の果たした役割、そして集賢殿の8学士たちが果たした役割についていろいろ問題が提起されているのである。 これに関して学会ではいまだに明確な結論を出せないでいる。それはなぜか。文字体系としての「訓民正音」は果たして誰が、いつから、どういう理由で創り始めたのだろうか。次回はこの疑問に挑んでみることにしよう。(朴宰秀、朝鮮大学校朝鮮語研究所所長) [朝鮮新報 2011.3.11] |