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地元の救援活動に参加して レンズの向こうに見た同胞愛


朝青東北地方委員会委員長と話す筆者(右)

 3月11日、震災当日は熱を出し朝大の寄宿舎で寝込んでいた。あまりの揺れの大きさに飛び起きてしまったその時は、まさか東京から遠く離れた自分の地元が大被害を被ることになるとは思わなかった。携帯電話の画面で恐ろしい津波の映像を見て、盛岡にいる家族と仙台にある母校が心配で、涙を流すことしかできなかった。

 絶望の中で真っ先に考えたことは、一刻も早く岩手に帰らなければということだった。岩手にはウリハッキョがない。他の被災地と比べ同胞数も少なく、過疎・高齢化が進む地元には活動の力となる「若者」がいない。総連の活動家の中で一番若いのは、今年 50歳になる県本部委員長―私の父だ。新成人が私1人しかいなかった今年1月の成人式で「岩手のために役に立つ人材になる」と誓ったことを思い起こした。

 震災から1週間後に夜行バスが復旧、3月に東京朝鮮中高級学校を卒業した妹と2人で盛岡へ向かった。帰省したその日から、私と妹は総連緊急対策委岩手県本部の一員となり、活動家たちと共に被災同胞たちの救援活動に携わった。

「セセデ」の役割

 震災から10日目、初めて甚大な被害を受けた沿岸部の町に入ることになった。私が任された仕事は総連本部の活動家たちと一緒に同胞たちへの救援物資を届けながら、彼らの被災状況や街の様子を映像として記録することだった。後日、沿岸部に行ってきたと言うと、「やはりテレビで見るのとは違うでしょう」という反応が返ってきたが、むしろ私はテレビの画面に映し出されたあの作り物のような惨状がそのまま現実として広がっていることがショックだった。「ここに家があった」と更地を指差し、「ここまでさっぱり流されると涙も出ないよ」と無理矢理の笑みをつくる同胞の横でカメラのシャッターをきるのは心が痛んで仕方なかった。

 それでも私は写真を撮った。がれきと化し跡形もなくなった家を、店舗を、同胞のために昼夜を問わず働く活動家たちの行動を、各地の同胞から届いたあふれんばかりの愛の救援物資を、そして絶望に暮れ、それでも多くの支えを受けながら少しずつ前進しようとする同胞たちの姿を撮りまくった。

 撮りためた写真と記録を基に、創刊以来10年続いている岩手の同胞情報誌「ハナ」の「震災特別号」を出すことになり、その編集を任された。総連本部で金正日総書記の慰問金伝達式が行われた時には、ビデオカメラで撮った映像を編集し、集まった同胞たちの前で上映した。彼らは画面の中に無事に避難した沿岸部の同胞の姿に見て、安堵の涙を浮かべていた。県外に住む岩手出身の同胞からは、インターネットで「ハナ」の情報を見て、知り合いの安否情報を得たと感謝の言葉をかけてもらった。こんな自分でも同胞たちの力になれるんだということを実感した。

 私は若者たちが率先して震災復興支援活動を展開していくべきだと思う。未曾有の困難に直面した今だからこそ、既成の発想ではない、もっと大胆でもっと時宜に適った支援の方法を考え、実践すべきだ。

希望を与える

 私は仙台のウリハッキョに救援物資の油を積んだタンクローリーが来たり、東京や京都の同胞救援隊が遠く離れた岩手まで駆けつけてきてくれるなんて考えてもみなかった。日本政府からのサポートはまだなのに、海を超えた祖国からの慰問金が現地で手渡されるなんて想像もしなかった。

 総連と同胞社会にはそれほどの潜在力がある。それがどれだけ被災地に希望を与えてくれたことか。

 ある同胞が私に話してくれた。

 「今回の震災でいろんなものをなくしたけれど、祖国と総連の活動家や同胞の支援を受けながら本当にチョソンサラムで良かったと思った。それに気づけたのは不幸中の幸いだよ」

 口では何とでも言えるという人がいるかもしれない。でも、何もかも失い、絶望に苛まれた状況の中で呟かれたこの言葉が心からの言葉でないなんて、私には思えない。

 復興支援はこれからも続く。「長い春休み」も終わり、後ろ髪をひかれる思いで東京の大学に戻ったが、これからも「岩手のセセデ」としてのプライドを持って、根気強く被災した同胞たちの心を支えるような活動を行っていきたい。(朝大・政治経済学部法律学科3年 崔淑)

[朝鮮新報 2011.5.11]