東日本大震災 被害が甚大な沿岸地域 石巻市と女川町を訪ねて |
「私たちの生命線」 19日、被災地の宮城で活動している総連中央緊急対策委員会のメンバーたちは、現地の活動家たちと共に甚大な被害に遭った沿岸地域の石巻市と牡鹿郡女川町を初めて訪ねた。対策委員から救援物資を受け取った被災地の同胞たちは、一様に謝意を示しながら、苦しいときほど相互扶助の力を発揮する同胞の絆の強さに感謝していた。
「まだ温かい」
宮城県商工会の韓泰成理事長(総連宮城県本部副委員長)が運転する車で石巻市へ向かった。韓理事長はこの間、同胞たちの安否確認を一刻も早く―との思いで、食事の時間も惜しんで各地域へと車を走らせてきた。 石巻市のある病院で朴洋高さん(30)に会えた。朝鮮大学校理工学部出身の彼は、専門学校で学んだ後にこの病院へ就職した。朝青員だった頃の数年前までも、車で2時間の道程を朝青本部までよく訪ねてきていた。彼の安否を直接確認した朝青の活動家は安堵の表情を浮かべた。 朴さんは、被災直後、混乱状態の中で偶然、オモニの辛記代実さん(55)を見つけたという。 「自宅から500メートル離れた地点にあった家屋はすべて津波で流されてしまった。今は水が供給されているが、電気は通っていない。物資は常に不足していて治安も悪い」
朴さんは、オモニと祖母の崔玉任さん(78)が避難生活を送る自宅に一行を案内した。家の中は家具が倒れ、前の道路には泥が積もっていた。総連中央緊急対策委メンバーらが米などの救援物資を手渡すと、辛さんは「まさかここまで訪ねてくれるとは思わなかった。実は食料が不足していた」と語った。崔さんは、「日本各地の同胞たちから救援物資が送られてくる。本当にありがたい」と話した。
続いて対策委員らは、李忠芳さん(52)を訪ねて救援物資を渡した。経営する焼肉店は、津波の被害に遭い、大々的な改装が必要だという。一行は、胸の高さまで水に浸ったという李さんの自宅を訪れ、被害状況を確かめた。 また、遊技業を営む白香錦さん(43)の自宅も訪ねて救援物資を手渡した。白さんは、「生きているだけでも幸いだ。今は日本市民たちと物々交換をしながら暮らしている」と話し、宮城対策委の女性メンバーたちが作ったおにぎりを受け取ると「まだ温かい…。本当にありがとうございます」と言葉を詰まらせた。 市内で一人暮らしをしていた「静子さん(60)は、地震後、海水に浸った自宅にはしごを立ててその上で一日半を過ごした。周辺の家屋が津波で流されていく光景を目撃。「10メートルの津波が来る! 逃げろ!」と叫んだある住民も津波に飲まれたという。家の中から出なかったことで九死に一生を得た「さんは、久しぶりに活動家たちの姿を見て安堵の表情を浮かべた。「最近、同胞の集いに参加できなかった。生活が安定したら必ず集いの場に足を運びたい」と力強く語った。
「家族の安否分からず」
対策委一行は、牡鹿郡女川町に移動した。 ここをよく訪れていた活動家は、被害状況を直接目にして驚きを隠せなかった。道路はところどころ水没し、同胞たちの家や店舗の位置すらわからないほど、平素とはまったく異なる光景が広がっていた。 経営していた飲食店が津波に流され、今は保育所で避難生活を送っている金富五さん(58)は、「戦争後のような廃墟と化してしまった『故郷』を見るのが辛くて、ここで避難生活を送っている」と語りながら、静かに涙を流した。家族の安否はまだ確認できていないという。 金さんから救援物資を手渡された保育所の所長は、「わけへだてない支援に心から感謝している。共にこの難関を必ず打開しよう」と話した。 一行はまた、震災から1週間以上を車の中で過ごしている李勇基さん(57)を訪れた。津波が押し寄せるまでの短い間、必要なものを車に積めて避難するのがやっとだったという李さんは、「同胞たちの真心がありがたい。救援物資のおかげで生きていける」と話した。(李東浩) [朝鮮新報 2011.3.25] |