東日本大震災 被災地レポート/気仙沼 大津波で壊滅 |
同胞被災者も厳しい生活 「間一髪で助かった」
今回の大地震で発生した津波は岩手、宮城、福島など東北各県の太平洋沿岸地域に壊滅的な被害をもたらした。震災から9日目となる19日、東日本大震災被害同胞救援宮城県緊急対策委員会のメンバーとともに、県北部の気仙沼市を訪れた。
気仙沼市には現在、6戸の同胞世帯がある。多いときで約40世帯が住んでいたという。震災後、対策委員会のメンバーが同市に入るのはこの日が初めて。 ワゴン車に水、食料、日用品、灯油などの救援物資を満載して被災地へ向かった。途中、高速道路の入口で災害緊急車両用のパスをもらい、東北道を北上。岩手県・一関で一般道に乗り換え、気仙沼市内に入ると、そこには想像を絶する悲惨な光景が広がっていた。
車を降りると、潮の臭いが鼻をつく。あらゆるものが破壊され、いたる所に瓦礫の山が連なる。火災の跡も生々しい。「信号が点いていない道を行き来するのは緊急車両と途方に暮れた表情の住民たち。電気、ガス、水道などのライフラインが止まった街は廃墟と化していた。
対策委員会が最初に訪ねたのは、市内の高台に住む朴昌頊(チャンウク)さん(83)、朴コノエさん(82)夫婦の家。在宅中に地震に遭ったという朴さん夫婦は玄関の扉や家の柱に必死でつかまって揺れに耐えたという。 幸い建物の損傷はなかったが、家中の物が倒れた。市内で一番高い場所にあるため、津波の被害は免れたが、電気とガスは現在も止まったままだ。水は井戸を利用しているので、近所の被災民が毎日のように水を汲みにくる。戦前から気仙沼に住んでいるという昌頊さん。過去に何度か津波に見舞われたが、「今回のようなものすごい津波は初めての経験」だという。
津波の被害で都市の機能は完全に麻痺している。朴さん宅には1年分の米の備蓄があり、畑もあるので、食料の心配は当面ないが、燃料や日用品の調達は非常に困難な状況だ。「自由に動けない年寄りにはとてもつらい」。
対策委員会のメンバーが食料、日用品などの救援物資を手渡すと、昌頊さんは「誰もわれわれのことなど考えてくれていないと思っていた。訪ねてきてくれて本当にありがとう」と涙ながらに話していた。
お風呂場のタイルの色で、自分の家だとわかった」と張さん。家があった地域は津波と火災両方の被害を受けた。「現場の惨状を見たが、映画のCG映像よりひどい。うちは50年前にも津波で流されて、今回が2度目だ」。張さんはあきらめきった表情でつぶやいた。
市内で健康ランドを経営する権栄昌さん(60)は津波から間一髪で逃れて助かった。地震発生当時、趣味である野球の練習をしていたという権さん。地震から30分後に津波が襲ってきたが、「こんなに早く来るとは思っていなかった」という。
進退極まったが、2階の火の手が収まってきたので、再び2階に戻った。火がくすぶる中、一晩を過ごし、翌日、救助され九死に一生を得た。
ガソリンが足りなくて外に出るのも大変だ。暖房もつかないから昼間から布団をかぶって暮らしている」と妻の金愛和さんは困窮を訴える。着の身着のまま逃げ出した近所の人々もいたので、自分たちの服を分けてあげたという。1階が水に浸かった店は営業再開の展望がまったく立っていない。 気仙沼地域では現在も呉君子さん、李豊美さん2人の安否が確認できていない。無事が確認された同胞に関しては、避難所暮らしの人はおらず、全員が自宅で生活しているが、店が壊滅的な被害を受けた人もいる。
ライフラインは復旧のめどが立たず、日常生活にも大きな支障が出ている。「気仙沼や石巻、女川、多賀城などに比べれば仙台は天国」だという対策委員会メンバーの言葉が大げさに聞こえないほど、これら沿岸部の被害規模は甚大だ。 [朝鮮新報 2011.3.25] |