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朝鮮新報 累計1万5千号 同胞と刻んだ65年の歳月

「私たち」を伝えて続けて

初の「全国」3位に輝いた大阪朝高ラグビー部の活躍に各地の同胞たちは沸いた(2010年1月8日)

 祖国解放を迎えた1945年。同年10月10日に朝鮮新報は、前身である民衆新聞の名で誕生した。

 その後、ウリ新聞、解放新聞、朝鮮民報を経て、1961年9月9日から現在の朝鮮新報として発行された。65年以上もの間、異国の地で祖国の姿、同胞たちの喜怒哀楽を伝え続けてきた。

 朝鮮新報は今号で、発行累計1万5千号を迎えた。

 1950年代の朝鮮戦争と戦後復興期。同胞たちは祖国の情勢に耳を傾け、朝鮮新報に掲載される記事を待ちわびた。57年4月27日付の朝鮮民報1面には、祖国からの教育援助費と奨学金に喜ぶ同胞たちの姿が伝えられた。

 2000年6月13日の平壌飛行場、北南首脳が抱擁する歴史的現場に朝鮮新報の記者はいた。6.15北南共同宣言発表と、それに沸く同胞たちの姿が紙面を彩った。

 時代が移り、世代が代わっても、その役割は色あせていない。

 「朝鮮新報は私たちの立場と見解を伝えてくれるメディア」。こう話すのは、昨年5月末に、朝鮮学校オモニ代表団としてスイス・ジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を訪れた李文恵さん(45、神奈川県在住)。代表団は、「高校無償化」制度から朝鮮学校を除外する日本政府の差別是正などを訴えた。

 しかし、日本のメディアはほとんどその活動を伝えなかった。李さんは「焦りだけが募った。朝鮮新報が大きく扱ってくれたことがうれしかった」と当時を振り返る。李さんは朝鮮新報を読むことで「自分たちの活動の正しさをしっかりと再確認できる」と話した。

朝鮮学校などを大学受験資格から排除するという文科省の方針に抗議する集会とデモ。朝鮮学校生徒たちはその後、大学受験資格を勝ち取った(2003年3月24日付)

 同胞たちにとって、朝鮮学校の子どもたちの活躍はうれしいニュースだ。

 「サッカー部の勝利を大きく取り上げて、日本各地の同胞たちに伝えてくれる朝鮮新報は、子どもたちにとっても大きな力と勇気を与えてくれる存在」。東大阪朝鮮中級学校サッカー部の朴秀勇監督(42)の言葉だ。同部は、日本中学校体育連盟主催の大会に朝鮮学校の参加が認められた1997年に、「全国中学校サッカー大会」(全中)に出場を決め、朝鮮学校スポーツ史に新たな一ページを刻んだ。同部はこれまで4回、「全中」に出場した。

 朴監督は「子どもたちの活躍をどこよりも大きく伝える朝鮮新報は、保護者や同胞たちにも、民族教育を守り発展させてきたことへの自負心を与えてくれる」と話した。

 一方、北海道朝鮮初中高級学校では、朝鮮新報を教材にした独自の課外学習を10年来行っている。学習では朝鮮新報に掲載された時事的な記事をピックアップし、その内容について理解を深めている。

 課外学習を担当する朴大宇教員(35)は、「反朝鮮、反総連報道があふれる日本社会で生まれ育った子どもたちが、朝鮮新報を通じて、祖国と同胞たちの活動の正当性を自然と理解するようになる。朝鮮新報は、何にも勝る教材だ」と口にした。

 朝鮮新報の歴史を語るうえで、「配達員」の存在は大きい。

 女性同盟神奈川・鶴見支部顧問だった李恩僖さん(故人)は、80代の高齢になりながらも、総連第20回全体大会(04年5月)の直前まで、自転車を引きながら朝鮮新報を配達した。周囲からの心配をよそに、雨の日も風の日も、同胞宅を回り続けた。

 日本植民地のかん難辛苦を乗り越え生き抜いた彼女にとって朝鮮新報は、祖国と同胞をつなぎ、総連と同胞を結び、同胞たちを一つにする何ものにも代えがたいものだったという。

 そんな1世たちの思いを受け継ぐ子どもたちがいる。東京朝鮮第2初級学校では数十年前から、児童たちが「小さな配達員」として朝鮮新報を同胞たちに届けている。同校がある枝川地域では、その姿が「当たり前の光景」になっているという。

[朝鮮新報 2011.3.11]