〈ベスト4への道 大阪朝高ラグビー部物語-2-〉 後輩からの重圧 |
21人の「スター」たち
「ようやく朝高に来た」 東大阪朝鮮中級学校時代、大阪はもちろん全国の強豪校相手にまったく引けを取らなかった新入生21人の「スター選手」たちは、並々ならぬ決意を胸に朝高ラグビー部に入部した。 大阪府ラグビーフットボール協会では、5月まで高校新入生の試合出場を禁じている。入部からの1カ月間、高1の選手たちは「(朝高のラグビーが)どんなもんか、見たろか」と、勢いこんで練習に参加。6月からチームに合流し、最初の練習試合で新1年生だけのCチームで相手のBチームを破ってしまった。 「あの頃からすでに『自分たちは違う』という驕りの片鱗を見せていた。どこかで鼻を折らなければならないと思っていた」と、呉英吉監督は当時を振り返る。 呉監督はその一方で、(当時の呉泰誠主将ら)高2にもプレッシャーを与えた。「強い高1が入ってきた。Aチームに入れなかった高3もいるし、Cチームからあがってくる高1もいる。Bチームにお前たちの居場所がなくなるぞ」。そして、「お前たちにしか持っていない武器を備えろ」と発破をかけた。 高2は、「ポジションを奪われまいと必死に練習した。だけど(ポジションを)取られるのは時間の問題だと思っていた」(金仁照選手)と戦々恐々としていた。 しかし、「周りから『1年に抜かれるぞ』『1年の方がマシや』と言われ、なにくそと思った。当時、技術では高1の方が上やったけど、気持ちでは絶対に負けへんかった」(呉泰誠主将)、「抜かれるという不安はあったけど、後輩が強ければ、チーム全体としては強くなるという期待もあった」(康貴普選手)と発奮し、さらに練習に励んだ。 そんな高2を見ながら、呉監督は高1の「鼻を折る作業」にも本格的に着手した。 「先輩たちはこんなに努力している。高3になったら間違いなく『全国大会』に行けるぞ」「たいしたことないやないか。うまいうまい言うけど、何ができんねん。タックルひとつろくにできへんやないか」「初心者やった先輩も1年間でこんなにうまくなるんや」と、ことあるごとに厳しい言葉を投げかけ、彼らがラグビーにより真剣に取り組むよう導いた。
「逆境を楽しむ」
先輩と後輩からの重圧の中、ひたむきにラグビーに取り組む高2を見て、呉監督は常に課題を与え、総体的なレベルアップを目指した。 「他校との練習試合で常にノルマを与えた。秋からは次の年を見越して高2に自信をつけさせながら、高1に隙を見せるなと、そのつど強調した」。また、周りからの雑音は気にせず、常に目の前のことに集中しろと強調した。 高2の選手たちは、監督の期待に応えるかのようにめきめきと実力をつけていった。ラグビーに関しては、目で見るもの、心で感じるものをすべて吸収し自分のものとして取り込んだ。 「吸収力の高さと飲み込みの速さはどの学年にも負けなかった。みんなで話し合い練習しながらラグビーに熱中していた。誰かにやらされているわけではなく、楽しみながらやっていた。当時の高2からは悲壮感はまったく感じられなかった。泰誠がインタビューでよく口にする『逆境を楽しむ』という言葉は、このような経験が土台になっているんだと思う」と呉監督は振り返る。 実力をつけていくうちに、呉泰誠主将や朴鐘圭選手が府の強化メンバーに選出される。そのような先輩たちの姿に、後輩たちの見方、接し方も徐々に変わっていった。 一つのチームとしての形ができあがろうとしていたが、今度は呉泰誠主将が「天狗」になる。強化メンバーの練習には一生懸命参加するが、朝高の練習では「腰が痛い」などと理由をつけて参加しない。授業中も寝ていることがほとんどだった。 そんな彼を見て、呉英吉監督はすぐに「制裁」を加えた。 「試合にはいっさい出さなかった。ラグビーだけやればええというわけやない、学校や両親、OBたちの愛情があってこそ今の自分があるということを常に言い聞かせた」 監督に言われ、呉泰誠主将はすぐに改めた。彼をはじめとする高2の選手たち全員が、その頃からすべての面で変わっていった。ラグビーはもちろん、勉強でも成績をどんどんあげていった。これには周りの教員たちも驚いたという。 高3が引退し、新チームの主将を誰に任せるかについて、呉監督はまったく迷わなかった。 「新チームの主将はやんちゃな方がいいと思っていた。口数も多いが自ら行動してチームを引っ張る泰誠こそ、このチームの主将にふさわしいと考えていた。彼と鐘圭が力を合わせればとんでもないチームになる」 呉英吉監督の確信にも似た思いを現実のものにした新チームが、ついに始動したのである。 [朝鮮新報 2010.1.27] |