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〈ベスト4への道 大阪朝高ラグビー部物語-1-〉 「史上最弱」からのスタート

 大阪朝鮮高級学校ラグビー部が、「第89回全国高校ラグビーフットボール大会」で3位という歴史的偉業を成し遂げた。朝鮮学校をはじめとする各種学校が、団体競技で「全国」ベスト4に入ったのは今回が初めて。1972年の創部以来、新たな歴史を創造した高3をはじめとする選手たちと、彼らを支えた監督やコーチ、マネージャーやOBたちの3年間を5回にわたって紹介する。

「認めざるをえない現状」

相手ゴールに向かって走る呉泰誠主将(対新潟工業、左から4人目が金仁照選手)

 13人という少ない部員数ながらも、「全国」ベスト4へとチームを牽引した呉泰誠主将をはじめとする高3の選手たち。しかし、彼らが中学から高1に上がった当時は、「史上最弱」という不名誉な「称号」を与えられ、その屈辱に耐え忍ぶ日々だった。

 「正直むかついたけど、当時は認めざるをえない実力しかなかったし、みんながそれを受け入れるような雰囲気だった」

 呉泰誠主将は、当時をこのように振り返る。1年の時からAチームでプレーしていた彼だが、自分たちとAチームの先輩たちのレベル差に愕然としたという。その差を少しでも縮めたいとみんなで話し合い、時間を惜しんで練習したが、結果はなかなかついてこなかった。

 プロップの金仁照選手も、最初は「史上最弱」と言われることを仕方がないと思っていた。

 彼がラグビーと出会ったのは初級部6年の時だった。「うちの学校の入学式に、自分の子どもの入学を祝おうと呉英吉監督(当時はコーチ)が参加していた。その時に監督から『いい体してるな。朝高に入ったらラグビーをやらないか』と言われた」のがきっかけで、中1からラグビーを始めた。

 しかし、東大阪朝鮮中級学校でラグビー部に入部したものの、完全な「幽霊部員」となった。「自分が練習に出ないことで同級生には迷惑をかけた。そんな自分でも、みんなは最後まであきらめずに仲間として認めてくれた。今の自分があるのはみんなのおかげだ」と話す。

 大阪朝高進学後もラグビー部に入部。「高2、高3がそれぞれ20人以上いる中、自分たちは13人しかいない。おまけに未経験者が6人もいたから、『史上最弱』と言われても仕方がないとあきらめていた」。

 その一方で、「いつか『全国』に出て見返してやる」とも思った。ラグビー部の練習が終わった後も個人練習を毎日のように繰り返した。並々ならぬ努力の結果、彼は168センチ、105キロという体躯で誰にも負けないくらい走れるようになった。

実感するきっかけ

今の高3部員が高1の頃に撮った一枚。当時は、周囲から「もやしっ子」と言われていた

 一方、自分たちの置かれた厳しい状況をプラスに考える選手たちもいた。

 169センチと小柄ながら、スピードで相手を翻弄し、府大会から「全国」大会で得点シーンにからんだ康貴普選手。

 「初級部の頃、大阪朝高ラグビー部の試合を見てラグビーをやりたいと思った。中学の3年間、ラグビーをやったが、まだやりたりないと思い、朝高でもラグビー部に入った」と話す。

 「最初はしんどかった。レベルも全然違う。でも、朝練にいつも出てキックなど個人のレベルアップに努めた。そして、高2、高3の先輩たちに負けないよう、自分が3年になってもラグビーを楽しめるよう心がけていた」

 不動のナンバー8として活躍した朴鐘圭選手も、プラス思考だった一人だ。

 父や兄の影響で中1からラグビーを始めた彼は、高1に上がった時からAチームのメンバーとして時々試合に出ていた。「最初に思ったのは、練習が厳しいということ。実力も比較にならないほど先輩たちと離れていたが、この環境の中で自分を磨けば、絶対にうまくなるという自信を持てた」と話す。

 悔しさとあきらめ、負けん気などが織り交ざった彼らに一つの転機が訪れたのは、2007年7月。強豪・大阪桐蔭との1年生同士の試合で勝利をもぎ取ったのだ。「試合には勝ったが、これでいけるという自信にはつながらなかった。でも、自分たちの強さを実感できるきっかけにはなった」(呉泰誠主将)。同級生間の結束も強まり、自分たちの力に対する自信も持ち始めたことで、実りある2年目を迎えようとしていた−。

 そんな彼らの前に立ちはだかったのは、中学校の「全国大会」とも言われる近畿大会で圧倒的な強さを見せて優勝した東大阪中級の後輩たちだった。

[朝鮮新報 2010.1.20]