NHKの社会的責任の欠如を危惧、なぜ「坂の上の雲」を放送するのか |
学べぬ歴史観
2010年8月29日は、「韓国併合」から100年にあたる。日本が1905年、日露戦争に勝利しポーツマス条約が結ばれ、朝鮮を植民地として以来、1945年の第2次世界大戦終結まで、いや今日にいたるまで朝鮮の人々を苦しませている。 ところがこの年に、日露戦争を美化したとも受け取られかねない司馬遼太郎氏原作の「坂の上の雲」が09年末に続いてNHK放送でドラマとなって今年も放映されている。さすがの司馬氏も生前に、あまりにも戦闘シーンが多いので、自分は好戦的と思われることを嫌い映像化を許さなかった。 しかし、司馬氏はこの小説の冒頭で、「私の考えでは、日露戦争は祖国防衛戦争でした」と断言している。 当時ロシアが旧満州に出兵して、そのまま居座るということは、ロシアの帝国主義的膨張政策であったが、日本の領土に侵入したわけではない。しかも日露戦争は、双方の領土で戦われたのではなく、中国や朝鮮という他国の領土をじゅうりんして行われた。 仮に朝鮮が当時の日本帝国主義の「生命線」であったとしても、朝鮮を併合するなどということが許されるものであろうか。朝鮮の人々にしてみれば、「ふざけるな」ということになる。司馬氏の小説のほとんどに目を通したが、朝鮮人が日本の支配によって受難を受けたという記述はついに発見できなかった。 彼の小説から日本の歴史に興味を持つきっかけを持つのは良いが、そこから正しい歴史観を学ぼうとすれば大きなまちがいを犯すことになる。 司馬遼太郎という作家は日本の高度経済成長を追い風にして、「日本は良い国になってきた」と思いはじめた大衆の喜ぶものを大衆が喜ぶように描いた。しかし、彼の原作による同じくNHK大河ドラマ「龍馬がゆく」(萬屋錦之助主演)はNHK大河ドラマ開始10年で最低の視聴率だった。高度経済成長という平和≠ネ時代に大衆は革命的ヒーローを必要としなかった。 日清・日露戦争の美化 02年には当時の小泉首相が訪朝し、植民地時代についての謝罪の言葉が盛り込まれた「平壌宣言」が発表された。しかし、このあと何度も、A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝を首相、閣僚らが強行、歴史認識が著しくゆがめられた教科書などが採用されたりした。本格的な過去の侵略への反省と清算が未だになされていないままであることを示した。 朝日新聞の「声」の欄(12月12日付)で、これは司馬氏の原作とは異なるが、「坂本龍馬に学ぼう」という2編の投稿が載っていた。「龍馬伝」が終わっての感想だ。 いわく、 「領土問題などで日本はたじたじの状況だ」 「(龍馬)の原動力は『異国から日本を守る』という決意と、卓越した行動力ではなかったか」「わが国の再生を図るためには、龍馬が指摘するごとく『いま一度、日本の洗濯が必要』なのだろう」 今、放送されている「坂の上の雲」ではないが、日露戦争前夜のように勇ましい§_調だ。 一方で同紙は同年10月5日付「オピニオン」面で野田正彰氏(精神科医・評論家)の「龍馬にしがみつくのは成熟拒否の表れ―軍国主義に利用された過去も。勝手な使い方はもうやめよう」というインタビューを載せている。 「人は年齢を重ねるとそれなりに成熟していかないといけない。なのに青春像にしがみつくのは、人格的に未熟だからです。高知(龍馬の出身地)では『史実と違いすぎる』と冷めている。軍国主義に利用されたことを忘れないでほしい。勝手な使い方には『いいかげんにしてくれよ』と言いたくなります」 たしかに時代がキナ臭くなると「龍馬」や司馬遼太郎の本が売れてきたことは事実だ。朝日新聞出版も「坂の上の雲」をはじめとする「週刊・司馬遼太郎」(朝日MOOK)を発刊しはじめた。いわゆる商業主義的マスメディアの限界を見てとれる。 今日、朝鮮の人々(南北を問わず)は日本の侵略への実効的な清算を強く求めている。 これは菅直人政権の真価を問い、日本人として生きる私たちが朝鮮の人々がたどってきた歴史とどう向き合うかへの問いである。 正岡子規は別としても、秋山秋古の騎馬師団のコサック騎兵との戦闘や、弟の秋山真之がバルチック艦隊と戦った日本海海戦が美化して描かれるとすれば、原作者の司馬氏ならずとも大いなる危惧を抱いてしまうのだ。 朝鮮民族の側からすれば、日清・日露戦争は自国の主権を根こそぎ奪った「韓国併合」に連なる屈辱の歴史である。そうした戦争における秋山兄弟の「武勲」を公共の電波に乗せて放送するNHKの歴史認識のゆがみと社会的責任の欠如に強い警戒心を抱かざるをえない。(高橋龍児、「アジア・太平洋戦争地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む岩手の会」事務局長) [朝鮮新報 2010.12.24] |