〈渡来文化 その美と造形 38〉 かまど形土器 |
竈形土器とは炊飯具の土器で、ドーム型の前面をくり抜いて焚き口を、天井部分をくり抜いて鍋や釜を載せる掛け口とする。5世紀ごろの竪穴住居に竈が作りつけられ始める。これは実生活上のものである。 初期(5世紀初・古墳時代中期)の全体の形式が明らかな例としては堺市伏尾遺跡出土のものがある。 この遺跡は最も古い段階の須恵器が多数出土している。須恵器は、1200度の高温で焼かれた、灰色の土器で、登り窯(穴窯)の築造や、土器の製作などに、新漢陶部高貴に代表される、朝鮮からの多数の渡来技術者によって製作された。 堺市には、陶邑と呼ばれる、須恵器を製作した集団が生活した集落があり、その周辺の谷から竈型土器が出土している。 ここで扱うのは、竈の部分と胴長の甕や鍋、甑などとセットになっていて、大きいもので40センチ前後、小さいものは10センチ前後の、ミニチュア炊飯具と呼ばれるものである。ミニチュアのものは祭祀用で、このような炊飯具は6世紀初頭(古墳時代後期)から盛んに作られ、7世紀初からは少なくなっていく。近畿地方、とくに滋賀県や奈良県の渡来人が集住していた地域の横穴式石室を持つ古墳から数多く出土し、東日本にも波及していく。これらの古墳は、石室内部の天井を穹隆持ち送り(ドーム式)とすることなどから、朝鮮系渡来人の墳墓と考えられている。 高句麗では横穴式石室に竈型土器が副葬される。平安南道南井里第53号墳からは竈型土器が出土し、また、多くの古墳壁画にも竈が描かれている。 慶尚南道晋州博物館が所蔵する高さ7センチほどのミニチュアの竈型土器(新羅のもの)と伏尾遺跡出土のものとが相似する。 古墳の石室は、死者の住む世界をあらわすもので、死者が黄泉の世界で飲食に不自由しないようにという儀礼に関わるものと考えられる。 奈良時代になると、岡山県大飛島遺跡にみられるように、海上交通の無事を祈願する祭祀にも用いられる。また、各地で平安時代のミニチュアの竈形土器が出土しており、この時期までこの土器が祭祀用として使用されていたことがわかる。 竈形土器は時代につれ少しずつ外見を変えながらも、住居内に煮炊き用のかまど≠ェ作りつけられていく過程をよく示してくれる。と同時にそれは、調理方法が焼く、煮る、蒸すというように発達し、人々の食生活を豊かにしていった過程でもある。 さらに、この土器は死者への祭祀用としてミニチュア化し、古墳に埋納するという渡来人の習俗表現の実体化ともなった。 竈形土器は、まことに地味な造型ではあるが、意味するところは実に大きかったといえよう。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表、権仁燮・大阪大学非常勤講師) [朝鮮新報 2010.12.20] |