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〈渡来文化 その美と造形 37〉 深大寺・白鳳仏

金銅釈迦如来倚像・重要文化財。台座に腰掛けた全高83.9センチ、座高59.3センチ

 日本の「白鳳時代」は、7世紀末、高句麗・百済の滅亡によって、朝鮮から技術者を含む多様な人々が大量に渡日することによって、日本文化の様相が大きく変容を遂げる時期であった。大化改新(645年)以後、奈良遷都(710年)までの間である。

 東京都調布市所在の深大寺に寺宝として東国随一とされる白鳳期(7世紀後半)の銅造釈迦如来倚像がある。この寺は、倚像は蜜蝋を用いて中型と外型の間に隙間をつくり、そこに溶銅を流し込む蝋型技法によって造られた全身が空洞の像で、銅の厚みがほぼ1センチで平均している。元来は鍍金が施されていた。

 下瞼の上縁に沿ってくっきりと刻まれた線、柔和な微笑を浮かべ、いすに腰掛けた端正な姿、流れるような美しい衣文などに白鳳仏としての特徴を備えている。

 新時代の到来を見据えたかのように、顔立ちや肉付けなどが、若々しい青年をほうふつとさせる像である。椅子に腰掛けた倚像は、白鳳時代に多い形式である。

 久野健「仏像と仏師の話」(学生社)によれば、「この像をアイソトープで撮ってみると非常に鬆が多く、やはり朝鮮系の工人により造られた像だと思います」とある。

 飛鳥時代、渡来仏師によって造られた金銅仏は、鬆の入ったものが多く、深大寺の倚像もその系列に連なるのであろう。

 「深大寺縁起」によれば次のようにある。

 この辺りに住む右近長者には、妻の虎女との間に一人娘がいた。福満という若者と恋仲になった娘を池の中島におしこめたところ、福満は大亀の背中に乗って中島に渡ったという。この奇跡に驚いた長者は2人を結婚させ、その間に生まれた子が満功上人である。

 この説話は古朝鮮の檀君神話や高句麗の始祖・朱蒙の説話と共通するもので、古くから渡来して定着した集団と、新たに渡来した高句麗系の集団とが一つになったことを象徴する説話なのかもしれない。

 深大寺の南、佐須には虎柏山祇園寺がある。虎女が住み、上人が生まれた場所で、満功上人が開基とされる。また、同じ佐須には虎柏神社があり、上人の祖父母を祀る神社とされる。

 寺の近くに高句麗からの渡来人が栽培したそばが始まりとかいうそば屋もあって、ちょっとおもしろいが、証明のしようがない。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表、権仁燮・大阪大学非常勤講師)

[朝鮮新報 2010.12.13]