top_rogo.gif (16396 bytes)

少女たちの無念を曲に込めて 「100年目の今、書かなければ」

 今年はいわゆる「韓国併合」100年目の年である。いわゆると言うのは「併合」と言う表現に異議があるからである。

 日本政府がなぜ「併合」という言葉を造ったのか。歴史家の中塚明氏の研究によれば、合併では日本と韓国が対等な立場で連邦になったという印象を与えかねないし、そうかといって実質が「植民地」であっても言葉のうえでは日本が韓国を一方的に支配下に置いた印象を与えたくないという、日本政府の見えすいた小細工であるという。

 醜悪な意図から出発したばかりに100年経っても、まったく反省の態度が見えない。国際的な批判を浴びると、「あの時はそうするしかなかった」とか、「大国から朝鮮を守ったのだ」とか「悪い事ばかりではなかった」など、とんでもない暴言が飛び出てくる。

 驚いた事に、日本の学校の先生の中には、近代史についてはいろいろな評価が定まっていないのでうかつに手をつけられないと公言している人も多い。

 日本の国自体が100年経っても自分たちが犯した戦争を総括していないことに大きな問題があろう。

 「臭いものには蓋をしろ」主義なのだ。臭いものはほっておくと、どんどん腐り、臭いも防ぎきれなくなる。

 しかし、時が経つにつれ、われわれの中にも36年間に何があったのかを具体的に知らず「いつまで過去にこだわるのか」「そんなことより前向きに進もう」と言う人たちもいる。日本人の中でも加害者としての意識は薄らぎ、自分たちもみんな戦争の犠牲者だったという。被害者意識だけを持って反戦を称える人が多くなった。

 そんなこんな話を聞きながら、私は100年目のこの年に同胞作曲家として何を書くべきなのか昨年から考えてきた。在日同胞たちの心情を代弁したいと志した作曲家として私がたどりついた結論は、われわれもそして日本人も決して忘れてはならない36年間にあった事を音楽として作品化しようということであった。

 4年前、私は広島、長崎の朝鮮人被爆者をテーマに作曲した。これが契機となって、植民地の受難を体験した人々のことを、ライフワークにして曲を作ろうと思うようになった。だが、ある人は「そんな重いテーマばかり書かないで今風の軽い曲」「前向きの明るい曲」を書いたらと言う。もちろんそのような曲も必要だ。しかし、そのような曲なら私よりもっと良いセンスを持った若い作曲家がいる。

 私は2世として1世たちのこの重く辛い歴史を音楽として書こうと思った。いや書かなければならないと思った。

 そして昨年の8月頃から資料収集と在日詩集を読み漁った。そして在日詩人の長老である金斗権先生の詩「海よ語れ 立待岬にて」(原文は朝鮮語)と出会った。私は日本の人たちもわかるよう翻訳をたのんだところ、金先生は私の意図するところを全面的に理解して下さった。そして、第1章から第4章までの合唱組曲としての作曲が始まった。私は正規の高等音楽教育を受けていない。一時期、日本の作曲家の門を叩いたが、あとは個人レッスンと独学である。いろいろな作曲家が書いた合唱曲を見ながら、こういう手法、ああいう表現、方法を参考にしつつ、また、民族的音階と、音の重ね方を自分の耳をたよりに書いていくのだ。

 そして何度も何度も書き直す。完成した後、何日かして引っ張りだすと、なんでこんな楽譜なんだと自分でもあきれかえり、また書き直す。これは一度演奏された後もまた続くかも知れない。そんな私の作曲方法だが、時として涙を流しながら書いた部分もあるし、白いチョゴリを着たオモニたちがこの曲を歌っている様子を思い浮かべながら書いた部分もあった。そして、何よりも見知らぬ地で故郷を想い、オモニを想い、立待岬に身を投げた幼い少女たち、その無念を合唱の旋律とハーモニー、ピアノ伴奏の一音一音に込めた。1年以上かかり30分の曲が出来上がった。

 この曲がいつどこで演奏されるかまだ決まっていない。演奏される機会にめぐり会うのかも分からない。作曲家にとって、演奏されるかどうか分からないまま書き続けるというのはとても辛い。

 しかし書かねばならないものは、書かねばならないのだ。同胞作曲家としての意識が続くかぎり。(金学権・作曲家)

女声三部合唱のための組曲「海よ語れ 立待岬にて」

[朝鮮新報 2010.12.13]