top_rogo.gif (16396 bytes)

〈渡来文化 その美と造形 36〉 墨・筆

新羅から輸入された墨。長さ26.1センチ、幅3.3センチ、厚み1.3センチ。表に「○新羅武○家上墨○」と陽刻し、○の所は朱点がある。

 墨は紙、筆、硯とともに「文房四宝」と呼ばれ、文房具において重要な位置を占める。

 日本における「墨・紙」についての記録は、『日本書紀』推古十八年(610)条に「高句麗王が僧・曇徴、法定を貢上す…能く紙墨を作る」とあるのが最も古い記録である。

 現在、日本最古の墨が正倉院に16挺残されているが、そのうち、新羅製の墨が2挺、完全な状態で納められている。それぞれ「新羅楊家上墨」(長さ26.1センチ、幅3.3センチ、厚さ1.3センチ。船形)、「新羅武家上墨」(長さ24.2センチ、幅3.2センチ、厚さ1.6センチ。船形)との銘が陽刻されている。「楊家」や「武家」は新羅国内の墨の工房名と考えられ、「上」は品質の上等であるということを示している。

 これらの墨は、松の煤・松烟を膠でねって船形にしたもので、これに香料として麝香、真珠、龍脳、臙脂などが混ぜられる。

 当時の墨は非常に貴重なもので、大量の写経や役所などでの需要から、輸入だけでは応じきれず、高句麗からの技術者の招聘とともに、日本でも墨が盛んに作られ、税としても徴収されるようになった。

 大宝令(701年制定)によれば、中務省の図書寮に墨造職人を4人置いたとあり、『延喜式』(927年撰)図書寮の項には、墨400挺を税として納めさせたとある。

 奈良時代には中央官庁として写経司が設置され、大量の筆が要求された。これらの需要を満たすため、中務省図書寮内に「造筆手10人」を置いて筆を作らせている。

 筆は消耗品であるため、特殊な観賞用でもない限り後世にまで残ることは少ない。

 朝鮮では、平壌・貞柏里121号木槨古墳から毛筆が出土している。一つは管の長さ約16.6センチ、直径約0.6センチ、穂先の長さ約2.5センチ、穂先に兎の毛が使われている。もう一つは、一端を四つ割りにした木に穂先を挿し込み、それを麻糸を巻き付け、根元を漆で固めてある。管の長さ約21センチ、直径約0.7センチ、穂先の長さ約1.4センチで、穂先は、芯が硬めの毛で作られ、その周囲を羊毛と思われる毛で覆われていた。

 墨が文字に「命」を与えたとすれば、筆は、文字表現に変幻自在の形を与える「マジック・ペン」であった。その由来もやはり朝鮮のようである。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表、権仁燮・大阪大学非常勤講師)

[朝鮮新報 2010.12.6]