〈シリーズ・「韓国併合」100年 壬辰戦争の研究をリード 貫井正之さん−下〉 朝鮮義兵研究と日本の歴史学 |
日本が「韓国併合」を強行した1910年、学術雑誌「歴史地理」は朝鮮号を特集して日本の朝鮮植民地化は歴史的に自然の理であり、必然の結果であると強調した。執筆陣は日本の近代歴史学を完成させたそうそうたるメンバーであった。日本歴史学界も政府が当時推進した大陸侵攻政策の僕となったのである。 豊臣秀吉の行った「朝鮮征伐」は、「韓国併合」以降、朝鮮・中国侵出という時代的背景から歴史学界にとって格好の研究テーマとなった。 呼称こそ「韓国併合」後、朝鮮民族を刺激しないよう、また朝鮮統治をスムーズに展開するため「征伐」からより「学術的」な「文禄・慶長の役」に改称した。しかし、「役」(蕃族平定史観)を使用する以上、大同小異である。 日本近代史学は実証的・科学的歴史学を標榜したが、当該研究テーマは日本軍の侵攻の歴史に偏重し、朝鮮人・朝鮮人の抵抗不在の研究であった。 壬辰戦争(壬辰倭乱)中の朝鮮民衆の義兵闘争は虚構であると断定し、豊富な史料も無視された。その不自然さに私は疑問を持った。戦争研究全体像構築には相手側の研究も不可欠である。私が壬辰戦争における朝鮮義兵研究に取り組んだのが60年代初頭であったが、日本の歴史学界ではほとんど問題にされなかった。 当該研究を進めるにつれて私を駆り立てたのは、文献史料だけでなく義兵活動の本場、韓国への現地調査だった。それが可能になったのは80年代である。
義兵興起の本場に立ち、文献史料から得られないさまざまな発見をした。「日本軍の進撃する処、義兵興起せざるなし」といっても過言でないほど朝鮮全土に義兵事績があり、後孫がそれを継承していた。その後数十年、韓国へ通いつめた。
あるときの出来事。1週間余の調査旅行を終えた帰国前夜、釜山で数人の仲間とささやかな打ち上げを行った。私たちは往路タクシー内で運転手を含めて義兵の話題に花を咲かせた。 ところが不覚にも、私は現金とパスポート入りのセカンドバッグを車中に忘れた。即刻、現地警察、日本領事館に処理を依頼したが「回収は無理」と見放された。 ぼうぜん自失、極楽から地獄の奈落へ落ち込んだ心境…。ところが先の運転手がホテルまでバッグを届けてくれた。彼は「日本人で壬辰義兵研究を一生懸命にやっている先生を尊敬したから」という。 韓国がいっそう好きになった。毎回、韓国の人々の歴史への熱い思いに鼓舞される旅であった。 慶尚南道宜寧市は壬辰義兵将の一人、郭再祐の出身地である。ここでは毎年、4月21日から義兵祭で賑わう。再祐は日本軍侵入に際して1592年の同日、村人を率いて朝鮮で最初に義兵を挙げた。 市内の至る処に義兵に因んだ名前が付けられている。義兵公園、義兵橋、紅衣(郭将軍の軍服)門、義兵塔、忠翼(将軍の諡名)祠、それに祭典のオープンニングは義兵歌斉唱という徹底ぶりである。これは宜寧市に限らず、義兵興起の地では顕彰行事が続いている。 壬辰義兵活動の伝統は、近代に入り日本の朝鮮植民地化の過程で熾烈な抗日義兵闘争、光復(独立)運動へと受け継がれ現在も生きている。豊臣秀吉英雄伝説をはじめ過去の日朝関係の負の歴史的清算ができない日本の歴史観との差異を痛感させられる。 しかし、80年代後半になると日本の朝鮮史研究の成果は歴史学界に影響を与えた。学校教科書の記述も「秀吉の朝鮮出兵の苦戦は、朝鮮義兵と李舜臣の海軍の活躍による」と説明されるようになった。 96年、私は「豊臣政権の海外侵略と朝鮮義兵研究」(青木書店)を上梓し、名古屋大学へ博士号を申請してパスした。高校教員在職中の58歳の時である。韓国きっての知日派の孔魯明氏(現世宗財団理事長)は、翌年訪韓した私たちのために歓迎昼食会を設けてくれた。 席上孔氏は、「日本の学界も随分変化した。日本軍が朝鮮義兵に敗れたという論文で博士号が授与される時代になったのだ。それも日本の国立大学から。隔世の感がする。日本もこれからよくなる」と述べた。的確で温かいスピーチを拝聴し、私は長年の宿願を果たした思いでいっぱいであった。 プロフィール 1937年生まれ。名古屋大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。近世日朝関係史専攻。現在、名古屋外国語大学講師。名古屋朝鮮史研究会会長。東海地方朝鮮通信使研究会代表。NPO法人フレンド・アジア・ロード理事長。著書に「豊臣・徳川時代と朝鮮」「秀吉と戦った朝鮮武将」など多数。 [朝鮮新報 2010.12.6] |