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〈シリーズ・「韓国併合」100年 壬辰戦争の研究をリード 貫井正之さん−上〉 秀吉の残虐さ、理不尽な侵略隠蔽

宜寧市・義兵闘争シンポジウム(筆者は左から3人目)

 1910年8月22日、日本は大逆事件をはじめ内外の朝鮮植民地化反対運動を圧殺し「韓国併合条約」締結を強行した。当夕、関係者たちは大祝宴を催し、その席で初代朝鮮総督となった寺内正毅は次のような和歌を披露した。

 小早川加藤小西この世にあれば、この世の月をいかに見るらん

 返歌として、側近の小松緑が、

 太閤を地下より起こし見せばなや、高麗山高くのぼる日の丸

 と応じた。

 小早川隆景・加藤清正・小西行長らは併合時より300余年前、壬辰戦争(文禄・慶長の役、壬辰倭乱)に参戦し、いずれも朝鮮軍に手痛い敗北を喫した。太閤(豊臣秀吉)は戦争発動の張本人である。

 上述の和歌は、「韓国併合」を成し遂げた寺内ら日本人指導者に「朝鮮征伐・懲罰」観が色濃く流れていたことを伺わせる。「かつて太閤たちは朝鮮征伐に失敗したが、自分たちはそれをついに成し遂げた」という達成観にみなぎっている。

 明治維新政府の主力となった薩摩・長州藩の壬辰戦争時における藩主は、それぞれ島津義弘(薩摩)、毛利輝元(長州)であり、将卒ともに朝鮮戦線で辛酸をなめた。彼らの「戦功」は、徳川時代にことごとく封印されたが、これらの藩では260年の間、朝鮮再侵略の伝統が脈々と継承され生き続けていたのである。

 1868年の明治維新とともに、新政府は大陸侵攻政策とあいまって「朝鮮征伐」を賛美し、豊臣秀吉の英雄潭を意識的に創作して国中に浸透させた。

 1890年、豊国会(会長は旧福岡藩主の黒田長成侯爵)が結成され、豊公の顕彰事業が政府の肝いりで大々的にスタートした。国民あげての墓金によって京都の東山山麓に壮麗、宏大な豊国廟・豊国神社が再建され、1898年に豊臣秀吉没後300年を記念して京都で大祭礼が華々しく挙行された。京都市民はもとより、全国から参集した群衆は、

 元はいやしき民家に出て神に祭らる人は誰 ホーコウサンドエライ御威徳

 朝鮮八道せめ立てられて唐土が怖がる人は誰 ホーコウサンドエライ御威徳(金子静枝・作詩)

 などと、囃子歌に合わせて市中を狂喜乱舞し練り回った。1912年には豊臣秀吉大陸侵攻賛歌の小学校唱歌まで作られ、太閤崇拝の潮流は政府の大陸侵攻策の思想動員の一環として全国津々浦々にまで波及した。

 名古屋市中村区は豊臣秀吉、加藤清正の生誕地である。明治時代になってから同地にも豊臣秀吉英雄伝説が急速に浸透し、両者の名称を冠した地名・学校名・諸施設名が氾濫した。同区内の最古の中村小学校(1873年創設)校歌は今も、

 二

 乱れしずめて、世をたてた
 豊清二公の 出たところ
 桐に蛇の目は さんとして
 わが学舎に はえている
 中村 中村 わが中村
 大志にもえる おおわれら

 とある。桐は豊臣秀吉、蛇の目は加藤清正の紋章。アジア太平洋戦争敗戦後、GHQ(占領軍)は天皇尊崇・軍国主義高揚の学校校歌を全国的に一掃した。上記の校歌も1948年に改作されたが、豊臣秀吉賛歌は見逃された。

 豊臣秀吉英雄像伝説は、地元はおろか日本全国に生き続けている。戦後に日本が経済的不況に陥ると、NHKは歴史大河ドラマに「太閤記」を放映し、著名作家は「太閤記」を書いて国民を元気づけた。壬辰戦争とその指導者―豊臣秀吉の残虐さ、理不尽な侵略の歴史的事実は隠し続けて。朝鮮をはじめアジア諸国から、日本は負の歴史遺産の清算を未だに果たしていないと告発される証左の一つである。

[朝鮮新報 2010.11.29]