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著者インタビュー 「陶磁器の道」を著した李義則さん

「朝鮮文化に誇りと愛着感じる」

李義則さん

 豊臣秀吉の朝鮮出兵を追ったドキュメンタリー映画「月下の侵略者」などのプロデューサーとして知られる李義則さん(71)がこのほど、「文禄・慶長の役と朝鮮陶工 陶磁器の道」を上梓した。

 「やきもの」を通して、朝鮮半島と日本の歴史的繋がりをたどることで、古代から豊かな朝鮮の文化の恵みが、日本列島にどのようにもたらされたかを生き生きと実証してみせた。

 李さんは1939年、北海道空知郡歌志内の神威炭鉱で生まれた。朝鮮人の父と日本人の母との間に生を受けたが、すでに物心ついたときには母はいなかった。

 働き者で心優しい父のもとで育ったが、その父も1962年に63歳で他界する。李さんは23歳だった。東京で暮らしていた李さんは通称名を名乗り、民族意識もなく、そのときまで「外国人登録手続き」などということも知らなかったという。

 そんな李さんだったが、「外国人登録義務違反」で罰金刑に処せられたことがあった。この事件以来、日本の中での朝鮮差別の構造に気づき、「自分は何者か」を常に考えるようになった。

 そして転機となったのが、72年に奈良県明日香村で高松塚古墳が発見され、空前の古代史ブームが起こったときである。「日本の古代史が朝鮮半島と深くかかわっていることを知り、衝撃を受けた。歴史学者の江上波夫さんの騎馬民族征服王朝説も脚光を浴びていて、日本の中の朝鮮文化遺跡めぐりに明け暮れる日々が始まった」。

 家庭でも在日2世の妻との間に3人の子どもにも恵まれ、表札も通称名から本名に替えた。本業の建設会社を立ち上げ、仕事も多忙を極めたが、次第に遺跡を巡る旅は、「やきもの」への旅へと切り替わっていった。

 「『島根県の朝鮮文化を訪ねる旅』を企画して、簸川町のある窯を訪ねたときそこの陶工から『私たちの国は朝鮮に対して本当にすまないことをしました』といって、深々と頭を下げられたことがあった。そして、帰り際には『今度は夕暮れにおいでください。猪口に浮かんだ月を一緒に飲みましょう』と笑顔で送ってくれた」

 20年前のこのすばらしい体験が励みとなって、朝鮮陶工たちが日本各地で開いた窯を探し歩き、また、南にも旅し、「やきもの」と所縁のある場所や骨董街、陶磁器研究家や作家たちにも巡り合い、ますます、「やきもの」の魔界にはまり込んでいき、その調査研究の集大成が本書に結実したのである。

 「日本のやきものは5世紀に朝鮮半島から須恵器がもたらされて以来、千年にわたって根本的な変化はなかった。それが大きな変化をもたらしたのは文禄・慶長の役によって、連行されてきた朝鮮陶工による磁器製造と陶技最先端の技法であった。世界に冠たるやきもの先進国日本は、この朝鮮陶工の技術を抜きにしては語ることができない。その意味で秀吉の朝鮮出兵はまさにやきもの戦争≠ナあったのだ」

 いま、本を書き終えてあらためて思う。「朝鮮民族が古代から脈々と伝えてきた高い文化に誇らしさと愛着を強く感じる。そのことは日本の歴史文献を紐解けば書かれているし、日本各地の遺跡が伝えている。若い人たちにもぜひ、そのことをよく知ってもらいたい」と。

 李さんが目を細めてうれしそうに語るのは、ウリハッキョですくすく成長する孫娘のことだ。「ウリマルを習い、民族の心を自然に身につけることができた。頼もしいね」と破顔一笑した。(新幹社、TEL03・5689・4070、1500円+税)(朴日粉)

※「文禄・慶長の役」=朝鮮ではそれぞれ「壬辰倭乱」「丁酉再乱」と呼ぶ。

[朝鮮新報 2010.11.26]