〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち22〉 「湖東西洛記」を記す−金錦園 |
見識広め、主体的に生きる 「家」の外へ
見聞録「湖東西洛記」には次のようなくだりがある。 「女であるならば足は閨門の外に出ず、ひたすら酒食のことだけを考えていればよいと言うが、(中略)なぜ女の中に卓越した者が誰もいないなどと言えるのか。そうでなければ、閨中深くにおり、その聡明さと見識を広げられず、ついには消えてしまうのだ。なんと悲しいことだろう」(若女子則足不出閨門之外、惟酒食是議、(中略)豈女子中出類拔萃者、獨無其人也。抑深居閨中、無以自廣其聰明識見、而終於泯泯没没、則何不悲哉) 金錦園(1817〜?)は、天が自分に知恵と才能を与えているのに、女だからといってなぜ男のように山川を遊覧し見聞を広げることができないのか、女は何かを成し得ることもなく名を残すこともなく、家に閉じこもり家事だけをやっていればいいのかと、強い口調で不満をあらわにする。その不満こそが、1830年春、14歳のときに両親を説得、男装で故郷―原州を発ち、金剛山を見聞し関東八景と雪岳山を縦走、漢陽地方に至る旅に出た理由としている。惚れ惚れとする自我とプライドである。
緻密な散文の記録
「湖東西洛記」の内容は、美しく神秘的な自然の描写、地方の風俗の紹介、既成の慣習への批判、過去の歴史の喚起と再評価、女性文士たちとの交流など多岐にわたる。 たとえば歇惺楼から見た金剛山の全景の描写は、鄭曄(1563〜1625)の比較的描写が詳細だとされる有名な「金剛録」よりも、多様で写実的であると評価される。 「或いは積もった雪のよう、或いは釈迦の結跏趺坐(仏教の瞑想する際の座法)のよう、或いは髪を結い化粧した新婦のよう、或いは集まった剣のよう、或いは蓮の花のよう、或いは芭蕉の葉のようにひとつは互いに手を取り合い、ひとつは互いにお辞儀をし、ひとつは縦に、ひとつは横に、立っていたり座っていたり、千態萬象、筆舌に尽くしがたい」(或如雪堆、或如釋ラリ、或如鬟粧、或如釼、或如蓮朶、或如蕉葉、一一揖、一縦一横、起起蹲蹲、千態萬象、不可以口舌形容) 自らの見聞を詩に著した女性は多いが、緻密な散文の記録として残した例は稀であろう。また、朝鮮朝時代の女性の文には、個人の嘆きや悲しみを書いたものが多い。錦園は「湖東西洛記」を書くにあたり、意図的にそういったものを排除している。その筆致はあくまで流麗かつ繊細、明るく朗らか、積極的に外部世界とつながろうとする意志があり、未来志向の自立の夢まで垣間見えるものである。妓生であった彼女は、29歳で地方官吏金コ熙に身請けされ、彼が義州に赴任する際一人で先に出発、龍灣に居住しながら統軍亭を訪ね、鴨緑江や九連城を見物し、国境の都市をぐるりと旅したという。だが、彼やその正妻との私的な生活について何も書いてはいない。「湖東西洛記」を通して際立つのは、金錦園という独自の存在である。 詩会の結成 錦園の活動の中で一番の驚きは、彼女が詩の同人を組織、詩会を催していたことである。「湖東西洛記」には、同人である金雲楚、瓊山、朴竹西、金鏡春が紹介され、彼女らがそれぞれ寄稿した一文が収録されている。また、詩会の模様も記録されている。 「共に遊び、錦の巻物が床に満ち、珠玉の作品が書架に満ちた。時に朗読することがあれば、その朗々たる声は金を投げうち、玉を砕くようだった。四季の月と風がじっとしておれず、漢江の花と鳥がまた愁いを解くようだった」(相與従遊、而錦軸盈床、球唾満架、有時朗讀、琅琅擲金砕玉、四時之風月、不能自閨A一江之花鳥、亦應解愁也) 彼女らが自然を描き楽しむのではなく、自然が彼女らのせいで「じっとしておれず」「愁いを解く」のだ。なんと立派な自負心であろうか。外部と切り離された生活を余儀なくされた当時の女性たちが、自宅以外に集まり、自己実現を図ろうとしていたという事実は事件ですらある。 「家」の外へ−錦園の見た夢は、現代では果たして現実のものとなったのだろうか。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者) [朝鮮新報 2010.11.5] |