王后閔氏殺害事件 乙未事変は日本の国家テロ犯罪 朝鮮歴史学学会論告状 |
【朝鮮通信=東京】朝鮮中央通信によると、朝鮮歴史学学会は10月6日、「乙未事変は朝鮮の自主権と民族の尊厳を侵害した日本の国家テロ犯罪」と題する論告状を発表した。要旨を紹介する。 今から115年前の1895年10月8日、日本の反動政府は正規武力を主とした大殺人集団を結成して朝鮮の王宮を襲撃して王后閔氏を無残に虐殺する一大惨劇を起こした。この事件が乙未年(1895年)に起こったため、乙未事変と呼ぶ。 朝鮮王朝26代王、高宗の后であった閔氏は当時、王宮内の不和を利用し、国王を代弁して国政を取り仕切り、国の実権者、国家権力の代表者としてふるまっていた。 日帝が侵略の群れを駆り出し、王宮を襲って王妃を惨殺した極悪非道な蛮行は、実に国家の自主権と民族の尊厳を由々しくじゅうりんした許すことのできない特大型の国家テロ行為であった。にもかかわらず、日本政府はこんにちまでその真相を隠ぺいし、責任を必死に回避している。 1、乙未事変は朝鮮に対する日本の侵略政策の産物 乙未事変は根深い日本の対朝鮮侵略政策の産物であった。 明治維新を前後した時期から「征韓論」を唱え、朝鮮を植民地化する悪巧みを企てた日本の侵略者は1894年、甲午農民戦争が起こるや、これを絶好の機会と見なしてわが国に対する大規模の武力侵攻を行った。 日本の侵略者はこの時、朝鮮封建政府を武力で屈服させ、清国の勢力を追い出して、朝鮮を植民地にしようとする悪巧みの下に、2個連隊規模の兵力を駆り出して朝鮮王宮を占領する一方、宣戦布告もなしに清国の艦隊を不意に攻撃して清日戦争を挑発した。この戦争を通じて日本は、朝鮮から清国の勢力を駆逐し、独占的支配権を掌握して植民地化に有利な地盤を築こうと画策した。 しかし、その後、朝鮮と東北アジアの地域情勢は日本に不利になっていった。清日戦争後、朝鮮人民の反日闘争は強化されただけでなく、帝政ロシアが東北アジアに対する進出を強化し、朝鮮にその勢力を伸ばし始め、時を同じくして王后閔氏をはじめ親露派勢力も台頭した。 こうした情勢の下で日本は朝鮮を支配するためには何よりも、朝鮮に浸透し始めたロシアの勢力を抑え、親露派勢力を政界から駆逐しなければならないと考えた。 清日戦争で勝利した日本は、朝鮮から清国の勢力を駆逐するようになったが、帝政ロシア、フランス、ドイツの3国干渉によって対朝鮮支配権が急速に崩壊する新たな危機に直面した。 すでに日本の侵略者は清日戦争での自らの勝利が明白になった1894年9月以降、わが国の革新官僚の甲午改革推進を妨害し、農民軍を野蛮に鎮圧した後、親日内閣をつくっただけではなく、それを操って内部、法部、席支部と宮内部など朝鮮政府の各部署に日本人の顧問を置いて不純な「内政改革」を強要した。 「内政改革」で核心問題の一つは、いわゆる「宮中の非政治化」の看板の下に国王の専制権制限を制度化して、国王と王妃を政治に関与させないことであった。しかし、日本の「内政改革」策動は失敗を免れなかった。 王后閔氏は帝政ロシアを引き入れて日本を斥ける政策を実施し、朝鮮朝封建統治層内部では反日・親露的な傾向が台頭した。 王妃は、3国干渉以降強まった帝政ロシアの影響力に依拠して親日勢力を政界から除去し、王権を回復する活動を展開した。閔氏のこうした親露的な立場は、日本の侵略者の「内政改革」を破たんに追いやり、日本の対朝鮮植民地支配政策推進の難関となった。 2、乙未事変は日本政府の直接的な操りの下に行われた反人倫的テロ犯罪 乙未事変は、破産の運命に直面した対朝鮮侵略政策を、やり遂げようとして日本政府が仕組んだ反人倫的なテロ行為であった。当時の史料と閔氏虐殺の主犯三浦梧楼のすべての言動がそれを立証する。 王妃を生かしておけば、対朝鮮支配権はもちろん、すでに築いた地盤さえも崩れて、もはや挽回できない最悪の状態に至りかねないことが明白になるや、日本政府は王妃を殺害する実践行動に入った。 当時、日本政府が三浦に与えた権限は第1に、朝鮮駐屯の日本軍守備隊と領事警察、および訓練隊を含む総武力約700人を王宮襲撃に動員できる事前承認とその利用権であり、第2に、日本政府が駐朝鮮日本人の民間暴徒に配る6千円の機密資金支出とその使用権であった(角田房子著「閔妃暗殺」)。 日本政府はまた、三浦に王妃殺害計画を作成させる一方、前公使の井上を再び朝鮮に送り、王妃暗殺未遂事件によって急激に高まった王室の反日感情を抑えるための懐柔策を講じさせた。それが井上の宮中政略と呼ばれる王室懐柔策であった。 井上は妻と共に国王と閔氏を訪ねて巨額の「贈り物」をして、朝鮮朝政府に300万円の借款を新たに提供するということを知らせ、それを餌にして買収しようとした(「日本外交文書」第28巻)。 昨日までは王妃を暗殺しようとし、その陰謀が失敗するや、今度は王室にへつらって歓心を買おうと醜態を演じる井上の行動こそ、凶悪で狡猾な醜い姿そのものであった。 ずる賢い術策で王妃の警戒心をゆるめた三浦は、同年10月初からすでに日本で作成した王妃殺害計画をさらに完成させ、具体的な実行措置を講じるなど、暗殺計画実行に本格的に取り掛かった。 計画は一言で言って、日本の軍事警察武力と日本の民間人暴徒を主力にした殺人集団を結成し、王宮を襲撃して閔氏を殺害することであった。 それによると、王妃殺害の総指揮は公使の三浦が担当し、軍隊指揮は武官の楠瀬幸彦が、大院君を宮中に参内させるのは宮内部顧問の岡本(柳之助)が責任を持ち、日本の民間人暴徒に対する指揮は漢城新報社長の安達謙蔵が受け持つことにした。 日本の侵略者はこれとともに、10月7日、朝鮮封建政府が訓練隊の解散命令を下し、8日から武装解除に入るという情報をあらかじめ探知し、それに合わせて王妃殺害日を10月8日に定めた。 10月7日夜、公使の三浦は楠瀬に命じて日本軍守備隊18大隊所属の兵力450人を出動させて漢城一帯を物々しい警戒態勢下に置き、岡本に警察と共に50余人の暴徒を率いて大院君を脅迫と欺まんによって王宮に参内させるようにした。 一方、訓練隊第1大隊長の禹範善も兵力200余人を出動させた。 翌日の10月8日の明け方、光化門付近に集結した数百人の日本の殺人悪党は訓練隊を先頭に立てて王宮を守っていた侍衛隊と銃撃戦を繰り広げるようにし、城壁を飛び越えて光化門を開け放った。 殺人悪党はすでに写真を通じて王妃の姿を目に焼き付けていたが、多くの宮女が悲鳴を上げ、四方に避難する混乱の中で王妃を容易に捜せなかったので、宮女を手当たり次第に刀で斬り殺した。 瞬く間に王宮は一大殺りく場、修羅場と化した。 そうした中で野獣らは日本人の小村室が王妃の養女として潜入させた女の口を通じて、日本軍警の刀に斬られて倒れたある女性が王妃であることを最終的に確認した(「大韓季年史」上)。 日本の悪党が行った王后閔氏の殺害は古今東西に類例のない残忍な蛮行であった。 他国の王宮に乱入して一国の王妃をこのように残忍に殺害したのは、実に国家の主権に対する重大な侵害であり、民族の尊厳に対する耐えがたいじゅうりんであった。 王妃暗殺の主犯である公使の三浦が広島の獄に一時監禁されたが、無罪釈放され東京に到着した時、天皇が側近を送って王妃殺害のいわゆる「功」をたたえ、慰労までした事実(「観樹将軍回顧録」1925年)もやはり、乙未事変が日本の天皇と政府の関与によって断行された国家テロ行為であったことを示す。 3、乙未事変の責任を回避しようとする卑劣な策動 王妃殺害の先頭に立った公使の三浦は、その計画通り、事件直後の10月10日、高宗を脅迫して宮中であった「乱動」は、訓練隊解散に不満を抱いた兵士らが起こしたという内部告示を出させ、王妃の行方不明を宣布させた。 三浦は10月10日、勝手に王后閔氏を平民に格下げするというねつ造した「廃后詔勅」を官報に発表した。 これに憤激した人民は、連日王宮に上疏文を送った。全国的な規模で反日機運が高まる中、各地で反日義兵隊が決起した。 ロシアをはじめ列強も朝鮮を独占しようとする日本に反対して閔氏殺害についての真相解明を要求した。 朝鮮人民と外交団の抗議と糾弾に遭った三浦と日本政府は慌ててそれに対処する計画を謀議した末に、王妃殺害に加担した軍人、暴徒を日本に召還し、朝鮮人の王妃殺害犯をねつ造、処刑する隠ぺい工作を行った。 日本政府は事態収拾のために10月10日、外務省政務局長の小村寿太郎を団長としたいわゆる「法律顧問調査団」を漢城に派遣し、朝鮮政府内の親日分子を強迫して軍部協辨の李周会、親衛隊副尉の尹錫禹、日本公使館の労務者朴銑を王妃殺害犯として逮捕、尋問し、絞首刑に処した。 一方、日本は公使の三浦以下犯人48人と軍人8人を広島の獄と第5師団の軍法会議に引き渡して、形式的な裁判をしただけで王妃殺害事件を終結させた。 [朝鮮新報 2010.10.29] |