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くらしの周辺−「二度とあってはならない」ではなく

 今年、「植民地支配責任を問う」(本紙にても紹介)という小冊子が、若い在日朝鮮人有志らの手によって発行され、息の長い評価を博している。そのおもしろさは、植民地支配の問題を、一つの結果論の次元のみならず、原因論の立場から問うことによって、「歴史」と「今」とのつながりを論理化させているところにあるのだと思う。

 在日朝鮮人は日本の植民地支配の「結果」によって生まれたという「歴史認識」と、植民地支配を「原因」として生まれたのだというそれとでは、実は立場の違いが存在する。「結果」が「原因」を従属させる認識が強固ななか、「結果」への偏重は、植民地支配問題の合理化に期せずして与する。

 「二度とあってはならない」という言葉。

 植民地支配と戦争を論じる際にしばしば使われてきたこの言葉は、かねて一つの「歴史認識」であった。だが、この「二度とあってはならない」という考えと、「(一度として)あってはならない(ならなかった)」という立場とでは、実に重要な違いが存在する。

 「二度とあってはならない」とは、一回目を否定しないことによって成立する考えであるという意味で、それは植民地支配を合理化しようとする「歴史認識」の一つの立場をなしてきた。

 私たちがとるべき立場は、「二度とあってはならない」ではなく、植民地支配が「あってはならない」ことであるという「歴史認識」に立った尊厳の回復であるべきだ。(鄭祐宗・大学院生)

[朝鮮新報 2010.10.22]