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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち21〉 哲学者−任允摯堂

男女は宇宙と社会で平等

お前が男であったなら

 任允摯堂(允摯堂は号=1721〜1793)の文集「允摯堂遺稿」の遺事(死者が残した生前の事績)には、「姉は幼い頃、兄や弟たちが経書や四書などを学び政治を論ずるたびに難解な質問をし、『お前が男であったなら』と周囲にため息をつかせた」とある。弟、任靖周が書いたものである。また夭逝した夫申光裕の弟光祐が書いた跋文には、「わが申家に嫁いでこられて書を身近に置いた風もなく、日常会話の中にも研究を匂わせるようなことも一切なく、ひたすら婦道に励んでおられるように見えた。だが、義父母が亡くなった後、年を召されてからは、家事の傍ら時間さえあれば夜が更けてもポジャギに包んだ経典を低い声で読んでおられた。…その後、我々兄弟は兄嫁の学問が人知れぬ努力のたまものだったということを知った」

女性性理学者

任允摯堂のイメージ(アン・ヨノク画)

 任允摯堂は朝鮮朝後期の女性儒学者である。一生を儒教の経典と性理学研究に捧げ、宇宙と自然や人の原理を得、たゆまぬ修養と道徳的実践を怠たらず達観の境地に至ったと評価される。允摯堂の文集である「允摯堂遺稿」は、上下2編1冊、彼女の死後3年目の1796年に実の弟と義弟により刊行された。上編には伝記2編、評論11編、跋文2編、論説6編が、下編には箴言(教訓や戒めとなる短い言葉)4編、銘文3編、祭文3編などが、また付録に言行録19条と跋文である略記2編が収録されている。「允摯堂遺稿」には、儒教の経典研究や、「理氣心性説」や 「人心道心四端七情説」のような性理学的な論文、中国の歴史的人物を批評した評論や、夫の復讐を遂げた実在の朝鮮の女性や、大学者の夫を学問の道に導いた実在の朝鮮女性の事績を紹介、批評している。特筆すべきは「理氣心性説」において、男女は宇宙と社会において同等の存在であると説いた点である。

 彼女は男女の差別を乗り越え、当時の人間の最終目的−聖人を目指すことで、差別的な性理学の女性観を克服しようとした。純粋に善であり悪がないことが元来の人の本質であり、それはすべての人に同じように与えられたものだという主張である。男性にだけ与えられたものではないということだ。

 「気の根本は静謐で、根源的に湛一(始終一貫している)のみである。静謐で湛一なものは即ち天地の浩然たる気であり、宇宙に満ちているものである。聖人から凡人に至るまで、誰しもがこの静謐で湛一な根本を持たない者はおらず、ゆえに互いに相違がない。(中略)だが、気に清濁が混濁しているのは末流でのこと、気の本来ではない。ゆえに聖人と私が同流だといえるのだ」(氣之本湛一而已、湛一者、天地浩然之氣、彌六合者也、聖人至於塗人、未嘗不同得此湛一之本、則宜無彼此之殊〔中略〕然而清濁雑糅、亦氣之末流然爾、非氣之本然也、故曰、聖人與我同流)

君子の徳は闇の中で輝く

任允摯堂の遺稿

 生活者としての允摯堂には、近親者の死がずっと付いて回る。8歳の頃疫病で父を亡くし、28歳のときには夫を亡くし、その直後難産の末に生まれた子を亡くす。養子を取るが夭逝、38歳のときには学問へと導いてくれた父とも慕う長兄を亡くす。では、彼女は不幸だったのだろうか? 平穏な家庭の喜びだけがこの世の幸せではない。

 彼女は65歳のとき、自身の文集の写しを弟に送り、次のように書き添えている。

 「私は幼い頃から性理学の存在を知っていました。長じては、肉を好んで食べるように学問に傾倒し、やめようと思っても出来ませんでした」

 生来の学者であったのだ。弟、任靖周はこう評価している。

 「姉上のような人こそが真実、閨中の道學、女人の中の君子だ」

 朝鮮初の女性性理学者任允摯堂は、73歳でこの世を去る。死後出版された「允摯堂遺稿」の跋文は、彼女を君子と呼ぶ。

 「今身罷ったが、その名声はいよいよ高く、君子の徳は暗闇の中でも光り続けると言うが、まさに相違はなかった」と。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2010.10.16]