top_rogo.gif (16396 bytes)

〈歴史×状況×言葉 朝鮮植民地支配100年と日本文学〉 第9回 金子文子

「飽くまで自由の念に燃えよ」

金子文子の肖像

 昨年、児童虐待の相談件数が過去最高を更新したという。件数は大きく減少する様子もなく、最近も親により児童が死に至るような凄惨な事件が報じられた。根本的な解決に向けた対策や展望が容易にはつかめない、ゆがみきって殺伐とした日本社会の中で、だがその根本原因であるはずの「貧困」がこうまで問題化されないのはなぜか。経済的な貧困、そして精神の貧困。政治もメディアも深刻を装いながら「何が彼、彼女らをこうさせたか」について決して正面から問いかけ訴えようとしない。

 「何が私をこうさせたか」−貧苦の中で両親に捨てられ、大人たちにいじめぬかれ、社会から虐げられついには国家権力により圧殺された23年の短い人生の果てに、だが類まれな気高い精神の自由を獲得した金子文子(1903〜1926)の獄中手記である。

 「あなた方(世の父や母)は本当に子どもを愛しているのですか。あなた方の愛は…すっかり御自分たちの利益のためにのみ子どもを愛するような風を装っているのではないのですか」−彼女の叫びは虐げられ殺されるこんにちの子どもたちの、親へと向けた声なき声を代弁しているかのごとく痛切極まりない。

金子ふみ子「何が私をこうさせたか 獄中手記」(05年に増補新装版として春秋社から出された)

 そして貧窮の中でも学びを渇望し、苦しみを逆に自己の確立と生へのエネルギーへと逆転させた彼女の思想と行動と言葉は、あらゆる貧困と人間的不平等とが天皇制国家権力によって作られていることを見抜く眼、さらに国家に対しあくまで反抗を貫くことで、自己が真に自己たろうとする精神の自由について教え勇気をくれる。

 金子文子について歴史学者の山田昭次氏は、「近代の日本人としての自己否定をした」「今日の日本人は近代日本国家によって殺された文子となお共闘しなければならないのだろう」(「金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人」)という言葉で著書を結んでいる。近代以来築き上げてきた自己像を必死で肯定し続けたいこんにちの日本を撃つ金子の思想と言葉は、植民地朝鮮で過ごした少女時代、自分の身内から奴隷のようにこき使われ虐待された体験と、同じく搾取され酷使される朝鮮人たちへの同情、さらに1919年3・1独立運動を直接「異常なる同情」をもって目撃したことが土壌となっている。

 朝鮮全土を揺るがした3・1独立運動はまた、これに参加しやがてアナーキストとなって日本で活動する朝鮮人朴烈との運命的な出会いも用意していた。私は朝鮮人を差別しない、そして「あなたは女性差別をしませんね」「私と同志として一緒に暮らしてくれますか」という朴烈への、ストレートで当時としては珍しい女性からのプロポーズは、革命的な愛の宣言であり、互いに平等な人間同士の真の連帯の呼びかけであった。

山田昭次「金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人」(影書房)

 1922年、朴と金子は「不逞鮮人」という差別語を逆用し雑誌「太い鮮人」を発刊する。その第2号で、金子は「朴文子」という朝鮮人になりきったペンネームで、「不逞鮮人」とは「飽くまで自由の念に燃えて居る生きた人間」であり「我々不逞鮮人は所謂其の筋が如何に勝手な鎮圧策を弄するとも如何に巧妙な取締法を布こうとも今日に於ける日本と朝鮮の関係が其の儘続く限り不逞鮮人はよし殖えようとも決して減りっこは無いのだ」と書いた。彼女の言葉は、こんにちの日本そのものを鋭く言い当て、かつ抑圧に打ちひしがれる私たち朝鮮人にも、「飽くまで自由の念に燃え」よ、そして「太く」生きよと、叱咤激励してやまない。

 関東大震災のさなか朴と金子は逮捕され、朝鮮人虐殺の責任をごまかそうとでっち上げられた皇太子爆殺計画の「大逆罪」により死刑となる。「恩赦」を拒み「権力の前に膝を折って生きるよりは、死してあくまで自分の裡に終始」した。彼女は文学者ではなくとも、その獄中手記は、けだし「日本近代文学史上に記憶されるべき傑作」(徐京植)である。

 そんな彼女の言葉には、悲劇性よりも、世の親たち子どもたち、そしてすべての朝鮮人たちに届けられたい、颯爽たる自由さと、凛とした勇気に満ち満ちている。(李英哲・朝鮮大学校外国語学部准教授)

[朝鮮新報 2010.10.12]