〈渡来文化 その美と造形 31〉 葛野大堰 |
葛野大堰は、現在の渡月橋の上流に、洪水の調整、灌漑用水の確保のために、5世紀頃に秦氏集団によって造られた。今も川底には当時の段差が残っている。また、少し下流の松尾大社付近の松室遺跡から、幅約60メートルの大溝が発見され、葛野大堰に関連した放水路だったと推測されている。 古来、保津峡谷を抜けて京都盆地の西北に流れる桂川は、嵯峨野と嵐山の狭い間からの流れが急で、梅雨や秋の台風時期にはたびたび大洪水を引き起こし、流路が大きく変わる、いわゆる「暴れ川」であった。しかしまた、この流域は京都盆地でもっとも肥沃な土地でもあった。 古墳時代前期(4世紀)、桂川右岸には秦氏定着以前からの人々が定住しており、日本でも古い部類に属する古墳がこの流域にある。これは、この土地の豊かさを物語るものではあるが、洪水の調節と流域の安定化が課題であった。 5世紀後半、葛野地方における秦氏集団は、桂川に大きな堰を築いて貯水し、水路を設けて水量を調節することに成功し、「天下にこれと比肩できるものはない」と誇っている。 渡月橋を中心とした上・下流間の保津川流域を「大堰川」と呼ぶのは、まさに秦氏による「大堰」の築造によるものである。 こうして嵯峨野や桂川右岸に広大な農地が開拓された。秦氏集団は盆地の最も肥沃な一帯を支配下に治め、後に、その財力は長岡京や平安京造営に大きな影響力を及ぼした。 秦氏は新羅の弓月君を始祖とする渡来人集団である。平安京の中心である大内裏の地は「秦川勝の宅」(10世紀の初め頃の記録)という記述もある(「拾芥抄」)ほど権威があった。嵐山の西、太秦に定住し、日本全国にその勢力を伸ばしていった。土木技術や農地開発、養蚕、機織、酒造、金工など、多様な殖産技術を持ち、日本各地の開発に大きな役割を果たした。中央では朝廷の「屯倉」を管理するなど財政も担当した。 秦河勝が聖徳太子からもらい受けた仏像を本尊とする広隆寺を建立したことはすでに紹介した。 洪水調整や灌漑用として作られた取水口である一ノ井堰は、室町時代にまでも利用されており、近年、その跡に一之井堰碑が設けられた。 大堰川に架けられた渡月橋は、平安時代のはじめに僧・道昌が大堰川を修築したときにかけられたものである。道昌は、讃岐の出身で秦氏である。 嵐山は、春は桜、秋はもみじの名勝として、山紫水明の景勝地として、平安時代以来今日まで多くの人々に親しまれている。その端緒は朝鮮からの渡来集団・秦氏が開いた。なんとも悠久な優雅ではあるが、秦氏にそうしようという意識があったかどうか、それはさだかでない。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表、権仁燮・大阪大学非常勤講師) [朝鮮新報 2010.10.12] |