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〈渡来文化 その美と造形 30〉 茨田堤

寝屋川市太間町の淀川の堤のうえに建てられている「茨田堤」碑(「日本歴史地理大系(大阪府編)平凡社」)

 茨田堤は記録に残された最古の堤防である。「日本書紀」仁徳天皇11(383)年10月条に茨田堤を築いたとある。

 4〜5世紀頃の大阪(北河内)平野は、西ノ海(大阪湾)が深く内陸に入り込み、平地中央部には「河内湖」があり、北の淀川と南の大和川はいくつかの支流に分かれ、標高の低い低湿地帯に水が流れ込み、たびたび水害に見舞われていた。大阪市の上町台地の北端にあった難波の宮からは、水没した様子がよく見えたという。

 そこで、この湿地にあふれる水を西の海に流すために上町台地の北端に「堀江」を開いて排水し、さらに北の淀川に堤防を築いて川の氾濫を防いだ。この堤防を「茨田堤」といい、この結果、現在の大阪府下における守口、門真、寝屋川、枚方、大東、そして大阪市の一部など、広く一帯の農耕が大きく発展した。

 現在、門真市堤根神社北側境内付近に堤防遺構の一部約100メートルが残っており、大阪府の史跡に指定されている。周辺の宮野遺跡からは、現在の地表の下1.2メートルのところに幅15メートルの古い堤防の遺構が発見され、5世紀ごろの須恵器が出土することなどから、茨田堤跡と推定されている。

 堤の工事は難工事であったらしく、武蔵の国の強頸と河内の国の茨田連衫子(茨田氏は新羅系渡来人の可能性が高い)2人のいけにえ≠ノついての説話が文献に残る。「強頸の絶間」は現在の大阪市旭区千林町付近、「衫子の絶間」は現在の寝屋川市太間町あたりとされている。

 この工事に秦氏を中心として朝鮮渡来技術者が深く関わっている。

 「日本書紀」には、この年、新羅人が…この工事に従うと記している。また、「古事記」仁徳天皇条に「秦人を労役に充てて、茨田堤と茨田屯倉を造」ったと、秦氏系の技術者の活動を示している。

 説話に見られるように、武蔵野の人々の労力と、茨田連衫子に代表される集団の知恵と、秦氏の技術と財力が集合した形でこの堤は完成したといえる。

 秦氏は、京都山背一帯を本拠地として活躍した新羅からの渡来氏族である。5世紀以降、西日本一帯で機織や農耕に従事し、農地開拓のための治水事業を数多く行っている。各地に拡大していた秦氏が、大和王権を財政的にも支え、朝廷の倉=屯倉の管理を担った時期もあった(「葛野大堰」の項参照)。

 寝屋川市には伝・秦河勝の墓とされる五輪塔があり、市内にある秦・太秦の地名は古く、平安時代の『和名類聚抄』に八郷の一つとして記されている。

 大阪平野は、今も昔も朝鮮人とのかかわりの深いところである。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表、権仁燮・大阪大学非常勤講師)

[朝鮮新報 2010.10.4]