top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 冷麺の普及と振興に功績−卞順漢さん

戦時下、母子で生き抜く

 岩手の同胞社会はもちろん、日本の人々の間でも名士として知られる夫の崔碩文さん(88)は、朝聯、民戦岩手議長を経て、総連岩手県本部委員長などを歴任。半世紀にわたって第一線で活動した後も物心両面で同胞社会を支え続けてきた。その夫と二人三脚で活動してきた夫人の卞順漢さん(76)。女性同盟岩手県本部副委員長、委員長(非専従)などを長く務める傍ら、今では岩手を代表する特産品、冷麺の普及と振興にも功績を残した人だ。

「亡国の民」の悲惨さ

長い間、岩手の女性同盟運動を支えてきた卞さん

 「今日からあんたの国は二等国になったの。私たちは三等国民よ」

 解放の年、国民学校(当時の小学校)5年だった卞さんは、近所の日本人少女のこんな言葉で8月15日を迎えた。意味はよくわからなかった。ただ、「もういじめられなくても済むんだ」と思ったという。

 戦前、卞さん一家は、「亡国の民は喪家の犬にも劣る」ほどの苦難を強いられた。植民地時代に生まれた者にとって、誰であれ逆境から逃れることのできなかった時代である。卞さんのアボジは14歳で4歳年上のオモニと結婚。すぐ、慶尚北道義城郡の生まれ故郷を離れ、京都の友禅の工場に出稼ぎに。以来、京都と故郷、そして、叔父が暮らしていた満州の延辺(現在の中国吉林省龍井)を転々としながら、29歳の短い生涯を終えた。義城生まれの卞さんもまた、4歳で延辺に向かい、民族学校2年生までそこで過ごした。その間、生まれた4人の子どものうち、卞さんを除いてみな、夭折した。その頃のことを振り返りながら、「幼心にも、(家族が)時代の犠牲者だという悔しさを味わった」という。

 それでもアボジには、何かと手を差し伸べてくれた兄弟がいた。父が亡くなり、天涯孤独になった卞さん母子が頼ったのは、盛岡にいたもう一人の叔父であった。1943年、8歳でオモニと2人で日本へ。

「韓日会談」に反対してた街頭で訴える卞さん (1964年、盛岡市内)

 叔父の家は、三ツ家(現・城西町)にあった。卞さんのオモニは盛岡に来たとき、チマ・チョゴリをまとっていた。「朝鮮人が来た」といううわさがあっという間に町中に広まった。叔父は出自を隠していた。そのため、従兄弟たちまで「チョーセンジン」といじめられるようになった。それでも卞さんは、満州の荒野と違って、春になれば緑したたる日本の山野に魅了されたことをよく覚えている。「日本に来たら、川にはどじょうが、山にはせりやぜんまい、わらびなどがいっぱい。下校したらすぐ近場の山に出かけて山菜取りに夢中になった」と。

 1年後、母子は叔父の家を出て、三十軒(城西町)の長屋に移る。「ハモニカ長屋」と呼ばれた長屋には女性と子どもばかり。男たちは、戦争に動員されたのだ。

 「他国を侵略するには、それだけ自国民を締め上げなけりゃならなかったんだね」と卞さん。

 日本にずっと住むとは思わなかった。45年に祖国が解放されると、すぐ帰郷できると思った。ところが、帰郷のため九州に向かった同胞らが船がなかったと盛岡に戻ってきた。その頃、岩手医大そばにあった教会では「午後夜間学校」も始まり、20人ほどの子どもたちが学ぶようになった。47年頃には、その学校で「金日成将軍の歌」を踊りながら歌うようになった。同胞の集会に金天海・朝聯中央顧問が出席したのもこの頃。

 そのうち、朝鮮戦争が勃発した。帰郷の夢は潰えた。

女性同盟の第一線で

 59年、帰国の道が開かれた。「今度こそ帰るんだ」と思った。4年前に結婚した夫は「自分が帰るのは最後」と決めていた。4人の子どもを食べさせるために商売を始めた。最初は小さな中華料理店だった。そんな頃、「食道園」の冷麺が評判になり始めた。

 66年に盛岡で「明月館」を開店した卞さんも「食道園」に続いて、冷麺を出すことに。東京から李承晩大統領に料理を出したこともあるという有名な料理人を呼んだこともあった。彼が作ったのは本格的な平壌冷麺だった。ソバ粉の入った細い麺。さっぱり味のスープだが、麺はゴムのように堅かった。

 しかし、さっぱり売れなかった。「本物の平壌冷麺はこれなのに」。これでは商売にはならない。結局、「食道園」に似た冷麺へ方向転換した。何度も試行錯誤を繰り返した。「食道園」の味を基本にみなが、冷麺の味にトライしていったという。

 半世紀以上にわたって女性同盟の第一線で重責を果たしながら、「明月館」の店主として家族を支えた日々。共に苦労を分かち合ったオモニは7年前に93歳で他界した。「忙しい私に代わって、孫やひ孫の面倒をよく見てくれた」と感謝の気持ちを忘れたことはない。「オモニは若いときに夫と3人の子どもを亡くしたので、一人残った私を、かわいいと思う前に『いつまた死ぬかも知れない』と畏れていたという。だから、その分の限りない愛情を家族に注いでくれた」と懐かしむ。(朴日粉)

[朝鮮新報 2010.10.1]