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〈渡来文化 その美と造形 29〉 狭山池

堤防から望む

 狭山池は、現在の大阪府狭山市の中央北寄りの、東の羽曳野丘陵と西の狭山丘陵との間に位置する。池の堤内側の斜面から5か所の須恵器の窯跡が発見されていることなどから、狭山池の築造は6世紀末〜7世紀初頭のことと考えられる。

 北流する西除川と、その西側を北流する三津川を堰き止め、周囲約4キロメートル、満水面積38.9ヘクタール、灌漑面積約570ヘクタールの広大な、日本最古の潅漑用の溜池である。この池を水源として一帯には豊かな農耕地が拓かれ、稲作・畑作が1400年を経た今日まで続けられている。

 狭山池の築造には「敷葉工法」(敷粗朶工法ともいう)が用いられている。敷葉工法とは、カシなどの小枝や樹皮、アシなどと粘土を交互に積みかさねてつき固める工法で、ソウルの風納洞土城や扶余の羅城、全羅北道金堤郡の碧骨堤などに用いられた工法である。碧骨堤は現在も高さ約4.3メートル、約3キロメートルにわたって築造当時の堤が残っている。この堤の放射線炭素による年代測定が行われ、4世紀中頃という結果を得た。

 この年代比定は、『三国史記』百済本紀 比流王27(330)年条に見える、「池堤を修築した」という記述と一致する。「堤の修築」であるから池はそれ以前からあった。驚きである。

 狭山池周辺の地域では、池が築造される以前から相当程度の集落が形成されていた。5世紀(古墳時代中期)以降、現在の大阪府の泉北ニュータウンを中心にして、西は和泉市・岸和田市、東は大阪狭山市の東西15キロ、南北9キロにおよぶ地域に、百済からの渡来人である新漢陶部高貴に代表される陶器作りの技術者集団によって、陶質土器・須恵器の生産地が形成されていた。

 また、狭山池は、僧・行基の数ある事跡のうちの一つに数えられる。

 『続日本記』天平4(732)年12月17日条に、「河内国丹比郡(現在の狭山市を中心とする一帯)に狭山下池を築く」とあり、この時期には下池が築造されたことがわかる。行基は狭山池の畔に狭山院と尼院を建て、そこに集まる信者を動員して池を修理し、さらに狭山下池を築いた。

 また、『続日本記』天平宝字6(762)年4月8日条に、「狭山池の堤が決壊したので延べ8万3千人を動員して修造した」とある。

 行基の父は高志才智で、百済系渡来人の書(文)氏の子孫である。

 水利・灌漑事業に果たした狭山池の巨大さは、朝鮮からの渡来人の業績の大きさでもある。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表、権仁燮・大阪大学非常勤講師)

[朝鮮新報 2010.9.28]