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都相禄 植民地下における現代科学の一断面、金日成総合大学初代物理数学部長に


量子力学の難問に挑んだ物理学者

都相禄の肖像

 20世紀初頭は現代科学の形成期であった。時間・空間概念の変革をもたらしたアインシュタインによる特殊相対性理論の提唱と、電子をはじめとする微視的世界を記述する量子力学の成立がそれである。では同じ頃、植民地転落の一途をたどっていた朝鮮で現代科学はどのような状況にあったのだろうか。

 「『私は、教育者になろうと思います。そして、生物学を専攻しようと思います』。しかし、聞いていた人のなかで生物学の意味を知る人はいなかった。このようにいうヒョンシクももちろん生物学という意味は本当は知らなかった。…生物学が何かも知らず、新しい文明を創造しようと自らにいい聞かせる彼の身世も哀れだが、彼を信じる時代も哀れである」

 朝鮮近代長編小説の嚆矢といわれる李光洙「無情」(1917)の、クライマックスである慈善音楽会を終えて主人公が自己の心情を語る場面である。

 時に小説は世相を如実に反映するが、この文章から容易に知られるように当時の朝鮮において科学は不毛であった。では、その後も朝鮮にとって現代科学はまったく別世界の出来事だったのか? いや、ここに研究者としての道を果敢に切り拓き、朝鮮の科学発展のために奮闘した一人の物理学者がいる。彼こそ植民地時代にあっては量子力学の最先端の問題に取り組み、満州新京工大教授となり、解放直後には自主再建された京城大学の理工学部長、金日成総合大学創立時には物理・数学部長を務め、さらに科学院創設時には院士となり朝鮮の核物理学を主導した都相禄その人である。

不毛の地での挑戦

「朝光」掲載の記事

 1903年咸興に生まれた都相禄は、私立永生中学校を卒業、岡山の第6高等学校を経て、1930年に東京帝大理学部物理学科を卒業する。研究者の道を志すがそのような職に就くことはできず、しばらくは大学の図書館で働き、その後、開城の松都中学校で教べんをとる。そして、この時に彼の名前を広く知らしめる論文「ヘリウム水素イオンの量子力学的取り扱い」を発表する。

 量子力学は1926年に一応の完成を見るが、まず、水素型原子に適用され原子番号を見事に説明した。そして水素分子、ヘリウム原子へと応用されたが、その次に提起されたのがヘリウム・水素イオンである。具体的にはその大きさと結合エネルギーの計算が課題であったが、シュレディンガー方程式を解析的に解くことができず、変分法という近似を用いて、なおかつ煩雑な数値計算が要求される。

 「論文を書くまで私は幾日も夜を明かした。理論的抽象によって原理をたて数値計算を行う過程で数十回も断念し諦めかけたこともあった。そのたびに、私は悠久な文化・伝統を持つ祖国と民族を思った。民族的自負心、これは私が最も頼りとする友であった。この友とともに、私は研究を一つの闘いとして行った。ついに論文は完成した。それは私の若さの所産であった。ビーチ、コールソン、ダンカンソンのような名のある学者でさえ手をつけたが断念した問題を、結局、朝鮮人が解明したとたくさんの人たちが祝福してくれた時は正直うれしかった」

 雑誌「祖国」1965年6月号に掲載された「科学を志す青年の道」という随筆の一文章であるが、ケンブリッジ大学教授であったコールソンをはじめとする著名な学者たちでさえ断念した問題を、植民地支配下の私立中学校の教員である朝鮮人がなしとげたという自負は理解してあまりある。しかも、論文は当時日本でもっとも権威ある英文の「日本数学物理学会記事」に掲載されている。

 さらに、この頃、都相禄は雑誌「朝光」1936年3・4月号に「因果律の再吟味」という解説記事を書いている。「朝光」は民衆啓蒙と民族思想の鼓吹を目的として発行された、今日の「世界」のような雑誌である。その解説は量子力学の確率解釈に関する本格的なもので、そのような専門的内容を読者がどれほど理解したのだろうかという気がしないでもないが、逆に植民地下で最新科学知識を伝える学者の姿に人々は尊敬と期待を込めたのかもしれない。

京城大理工学部長も

「日本数学物理学会記事」掲載の論文

 1940年代に都相禄は満州(現在の吉林省長春)にある新京工大教授を務めているが、とくに興味深いのは「満州物理学会誌」の編集人として活動したという事実である。また、湯川秀樹や小谷正雄をはじめ錚々たる人たちが集まった「物性論懇談会」にも参加しており、日本の研究者のなかでも知られた存在となっていた。小谷正雄は東京帝大教授であったが、都相禄の論文には彼に対する謝辞があり、かなり親しい関係にあったことがわかる。余談になるが、筆者は学生時代に小谷の著書「演習・量子力学」に大変お世話になったが、こんなところでその名前が出てくるとは思いもしなかった。

 さて、解放を迎えて都相禄をはじめとする朝鮮人学者たちは、京城帝国大学を京城大学として自主再建するが、この時、都相禄は理工学部長の重責を担う。ところが、米軍政主導によって京城大学をはじめとする専門学校を統合する「国立ソウル大学案」が発議され、その反対運動の先頭に立っていた都相禄は大学を罷免される。そして、越北し金日成将軍と面談、大学創立事業に携わるのである。

 金日成総合大学は1946年10月に7学部、教員数68人、学生数約1600人で開学するが、この時、都相禄は物理・数学部長となる。金日成総合大学は、その後、工学部が平壌工業大学、医学部が平壌医学大学、農学部が沙里院農業大学へと、それぞれ分離・独立。そして、1949年12月に第1回卒業式を迎えるが、卒業生は物理・数学部の19人であった。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2010.9.28]