〈渡来文化 その美と造形 28〉 昆陽池 |
昆陽池、瑞ヶ池、そして緑ヶ丘の上池・下池など灌漑用の池がある現在の伊丹市は、東の猪名川、西の武庫川に挟まれたなだらかな丘陵地帯で、池が造られるまで、北側では河川の洪水に苦しみ、南側では水不足に悩む地であった。 733(天平5)年、僧・行基が5つの用水池と3つの用水路を造った。そのうち一番大きな池が昆陽池で、現在の規模は築造当時の四分の一にしかならないが、江戸時代の地図によれば、周囲が一里(約4キロメートル)の広大なものであった。 昆陽池の辺りは周辺より低くなった窪地であり、この北側に溝を掘って川の水を窪地に溜め、南側に水路を設けて農業用水の不足する地域に水を流すようにした。この後、この池は近年に至るまで長い間この地域の田畑を潤し、洪水を防いできた。 昆陽池をはじめとする大小の池や堀川などの開削によって、周辺の約150ヘクタールの土地が新たに開墾されたという。 昆陽池を造るとき、行基は、この地に昆陽施院を建てて農民や貧民、旅人や病人の救済を行っている。また、自身も新田開発に当り、神亀年間(724〜729年)には50町歩の土地を開拓している。 行基の両親は百済からの渡来人の系譜を引くもので、その周辺に朝鮮からの土木技術などを身につけた集団があったものと考えられる。また、奈良の飛鳥寺で得度(僧になること)した百済渡来人僧・道昭に師事した行基は、その社会奉仕事業から多くのことを学んだ。 行基は、摂津・河内・和泉・山城の国(畿内。現在の兵庫県と大阪府、京都府)に49の寺院を建てたほか、用水池や溝、道路や橋、布施屋(一種の社会事業施設)などを造った。現在の伊丹市に行基町という地名が残り、その業績を伝えている。 昆陽寺は、昆陽施院をもとに建てられた寺で、昆陽池の南1.5キロメートルの所にある。行基建立の畿内49院の一つで、731(天平3)年に創建された、七堂伽藍を有する巨刹であったと伝えられている。 池は後世に次々と埋め立てられ、築造時の原形をとどめてはいないが、それでも渡り鳥が飛来する公園として整備され、四季折々に人々の憩いの場となっている。 それにしても、荒れると恐ろしい水を、安らかな形で人間の生活に適合させた行基に代表されるような渡来人が現代に残した業績は敬服に値する。(権仁燮・大阪大学非常勤講師) [朝鮮新報 2010.9.13] |