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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちS〉 「聖王」世宗大王の后

宮中でサバイバル−昭憲王后沈氏

偉大な夫

「交泰殿」(王妃の寝殿)

世宗王と妻の昭憲王后沈氏の

 朝鮮王朝時代の文化的成果はすべて、第4代王世宗王の治世時に得られたものだといっても過言ではない。集賢殿を通じた数多くの人材の輩出、儒教政治の基盤となる儀礼制度の整備、多様でぼう大な編さん事業、訓民正音の創出と普及、農業と科学技術の発展、医療技術と音楽、芸術および法整備、国土の拡張など数えればきりがない治績である。

 昭憲王后沈氏(1395〜1446)はそんな世宗との間に8男2女をもうけ、うち2人は王位を継ぐなど傍目には幸せな后の代表のように伝えられることが多い。また、世宗の8人の側室に嫉妬することなく、その子ら10男2女をわが子のように慈しんだとも伝わる。「婦徳」の体現者だとする野史もある。

 だがその一生は、他の后や側室たちと同様、苦しみと痛みに満ちていたのである。だが彼女は、嫉妬や虚栄心などに囚われず、宮中での生き残りを賭けて、ありったけの忍耐と知恵を絞るのである。

 世宗は后を亡くした後、昭憲王后沈氏の死を次のように悼んでいる。

 「…心に険がなく、邪な気持ちで私的な謁見を求める非もなく(中略)五福をともにしようと思っていたが、なぜ急に中年にして永訣せねばならぬのだ(心無險陂私謁之非〈中略〉謂共享於五福、何奄訣於中年)」(朝鮮王朝実録 世宗28年〈1446年6月23日〉)

痛みと悲しみ

世宗王の銅像

 朝鮮王朝一多産であった沈氏は、1425年、26年、27年と3年続けて王子を出産している。ところがそれ以来7年間、彼女は子を生むことはなかった。残る7人は7年後からである。

 世宗は彼女の宮女であった側室―愼嬪金氏との間に、1427年から12年の間に6男2女をもうけている。愼嬪金氏の出自は公奴婢であった。時代劇に登場しそうな血なまぐさい嫉妬の攻防と、彼女らを押し立てた王位継承に絡む政治的な陰謀と駆け引きが渦巻きそうであるが、そんなことはなかったようである。

 一つは、愼嬪金氏の出自が奴婢であったため後ろ盾がなく、沈氏の実家も世宗の父―太宗によって破滅したからだった。昭憲王后沈氏の心が広かったからだというのは世迷言である。后の実家に危機感を抱いていた太宗と政敵であった柳廷顯、朴ァらの陰謀と相まって、沈氏の父は遠流の末賜死、母は公奴婢に転落し、沈氏自らも廃される危機に瀕していたのだ。

 臣下たちの中には、後日彼女の復讐を恐れて強行に后の座から引き摺り下ろそうとする者たちがいた。だが、太宗と世宗、すなわち舅と夫は彼女を廃することに頑として首を縦に振らなかった。すでに王子を複数産み、世宗との仲も睦まじく、また王に圧力をかける彼女の実家―外戚を排した後だったからである。そんな境遇にある彼女は、嫉妬などで身を破滅させるわけにはいかなかったはずだ。身分の低い出自の側室にも分け隔てなく接したという彼女の行いは、美しい「婦徳」ではなく、権力闘争のさなかでのサバイバルだったといえよう。

王妃のイメージ

 彼女は聡明であった。宮中のいたるところに自分の手足となる者を潜ませ側室たちの行動を監視、多くの王子たちの行動もこのように把握したという。異性関係が複雑な王子の行いなどは、すべて世宗に報告し、そちらに処理を任せた。複雑怪奇な宮中の人間関係をうまく管理したのだ。

 だが、困難はこれでもかというように、彼女に降りかかる。長男である東宮の最初の妻は、夫の歓心を買うため占いや呪いに走り放逐の末その父により自害、父母も後を追った。2番目の妻は側室に奪われてしまった東宮の愛を取り戻そうとあがいた末、寂しさを慰めるため宮女と関係を持ち放逐され自害。そのうえ、3番目の東宮妃は待望の孫を生むとその翌日他界してしまう。また4男と8男の夫人たちも病が理由で宮中から放逐。それにとどまらず、2人の王子が20歳を前後して夭逝。この頃から彼女は病を得て、床に伏せるようになる。

苦しみの果て

 夫の数多くの側室とその子らの前で必死に耐え、心の中で血の涙を流している自分をよそに、夫の愛を独占できないからといって身を持ち崩していく東宮妃たちを見ながら、彼女は何を思っていただろうか? 馬鹿な嫁だと笑っていただろうか? あるいは、その正直な感情の発露を羨んでいたのだろうか?

 ともあれ、昭憲王后沈氏は聡明な頭脳と冷静な知恵、内的には血を流しつつもそれを見せない忍耐力で宮中のサバイバルに勝ち、世宗大王と後世に称される夫を支えた「賢夫人」であったことは間違いない。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2010.9.10]