top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝大 朝鮮歴史博物館-12-〉 朝鮮の三国時代9 冠装飾、瞻星台など

百済、新羅、伽耶の展示物

 前回までは朝鮮の三国時代の中で、高句麗の展示物について古墳壁画を中心に紹介してきた。今回は高句麗の南方で興った百済や新羅、そして伽耶諸国にまつわる展示物について見ることにしよう。

百済と新羅、伽耶の始祖

百済、新羅、伽耶の展示物

 百済は朝鮮半島の西南部に位置した国である。その都は今のソウル地方であり、後に熊津(忠清南道公州)、泗沘(忠清南道扶餘)に遷都している。始祖の温祚は高句麗東明王(朱蒙)の子で、高句麗から南下して百済を建てている。

 新羅の始祖は朴赫居世だと史書は伝えている。彼は楊山の麓の林中で発見された不思議な卵から生まれたとされる。当時の新羅では瓢を朴と言い、卵が瓢に似ていたことから朴を姓にしたという。

 伽耶は金官、阿羅、星山伽耶などの小さな国々の総称といえる。伽耶諸国のなかで中心的な役割を果たしたのは、金海地方に興った金官伽耶である。始祖の金首露は、天から亀旨峰に降りてきた金色の箱に収まっていた卵から生まれたという伝説が、今に伝わっている。

さまざまな形の冠

慶州の瞻星台

 当館では百済や新羅、伽耶地方の王冠や冠装飾を見ることができる。

 まずは武寧王陵出土の王冠飾りを見てみよう。

 百済第25代王武寧王の墳墓は、1971年に公州の宋山里古墳群から発見された。ここから出土した誌石には「寧東大将軍百済斯麻王(斯麻は武寧王の名)」と書かれており、このことから武寧王の墓とわかったのである。王と王妃の王冠飾りは薄い純金板を切り抜いて作っている。上方になびく火炎状の花模様と、左右対称にあしらわれた忍冬唐草文が印象的である。王のそれには多数の歩揺が施され、付け根には冠帽に装着するためと思われる小さな穴が2つ確認できる。

 新羅の王冠では天馬塚出土の複製品が展示されている。天馬塚は慶州皇南洞にある古墳だが、隣接する皇南大塚の予備調査として発掘された経緯を持っている。ここからは1万2千点におよぶ膨大な副葬品が発見された。とくに馬装の障泥に描かれた白い天馬は、この墳墓の名の由来になったものである。金製の王冠は、冠帯に4段からなる「出字形」の立飾りをつけ、冠全体には円形の歩揺とヒスイ製の勾玉が配置されている。

 当館では伽耶の冠や土器も展示しているが、各国のものを見比べてみるのもいいと思う。

新羅の天文学と瞻星台

天馬塚外観

 新羅では国初から天文学が発達していた。史書には日食や彗星の記録、昼間に金星を見ることができたという記事が散見する。また雷雨や日照り、霜など気象に関する記事も少なくない。これらは農業を営むための重要な条件であったと思われる。

 ところで新羅の天文学を物語る貴重な資料に瞻星台がある。善徳女王(632〜647年)の時代に建てられた瞻星台は、創建当時の姿を留めているものとしては世界最古の天文台とされる。花崗岩の切石を27段の瓶形に積み上げた瞻星台は、高さ約9メートル、基底部の径約5メートルである。頂部には長石を「井字形」に組み、胴部には出入り口と思われる窓もある。基壇の四辺は東西南北を正確に示し、窓も正南に面しているが、これは新羅の優れた天文学を今に伝えるものである。当館では6分の1の大きさで復元された展示品を見ることができる。(河創国、朝鮮歴史博物館 副館長)

朝鮮歴史博物館へは「朝鮮大学校国際交流委員会」へ電話連絡のうえお越しください。

 朝鮮大学校 東京都小平市小川町1−700、TEL 042・341・1331(代表)。

アクセス

・JR中央線「国分寺」駅北口より西武バス「小川上宿美大前行き」または「小平営業所行き」「朝鮮大学校」下車徒歩1分

・JR中央線「立川」駅北口より立川バス「若葉町団地行き」、終点「若葉町団地」下車徒歩10分

[朝鮮新報 2010.9.10]