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〈渡来文化 その美と造形 27〉 新羅善神堂、新羅明神

1347(貞和3)年。正面3間、側面3間、一重、流造、絵皮葺。国宝。

 この堂の祭神は新羅明神である。伝承によると、天安2(858)年に智証大師円珍(814〜891年)が唐から帰国する際、暴風にさらされて仏に祈ったところ、船中に1人の老翁が現れ、新羅明神と名乗って、「私を信祀するならば、円珍のために仏法を守護しよう」と約束した。円珍は帰国後新羅明神の導きで園城寺(滋賀県大津市)を再興し、その縁で、860年頃新羅明神が園城寺に祀られた、という。

 この新羅明神は、中国の赤山法華院において新羅人たちが祀っていた神で、それを園城寺の守護神として請来したのであった。

 赤山法華院は、中国山東半島文登県赤山村の新羅坊(唐にある統合新羅時代の新羅商人たちの集団居住地)にあった新羅人の寺院である。

 慈覚大師円仁(794〜864)は、この新羅神を「赤山明神」として、天台宗の西の守護神とし、その弟子たちが、888年赤山禅院(京都市左京区修学院)を創建した。神の名称は違うが両方同じ神である。

 新羅善神堂には国宝の新羅明神坐像(国宝)が安置されている。秘宝で一般公開はされていない。

 この神像は像高78センチ、平安時代の作で、桧材で作られている。この像容について、「智証大使1100年御遠忌記念 三井寺秘宝展」(日本経済新聞社、1990年)の図録に、「頭髪とあごひげに細かな毛筋を刻み、また着衣部には大振りではあるが華麗な文様(採色および金銀截金)が配されている。血走って極端に垂れ下がる目、鋭く高い鼻、神経質な細い指など、神秘的な感情をたたえながらもなお彫法は軽妙で11世紀にまで遡る古様が看取される」とある。

 写真で見ても、日本の神像とは違って「何やら異様な」という印象である。

 園城寺には、別に新羅明神の画像が2幅あり、鎌倉(重要文化財)・室町時代の作品とされている。鎌倉期の画像(13世紀末)は、「唐様」の装束をまとって椅子にすわり、長い顎鬚を蓄え、鋭い眦に額や頬に刻まれた深い皺などからこの神社の国宝の坐像同様、日本の神像に一般的な風貌とは縁遠い。

 この新羅明神は、園城寺を創建した百済渡来人、大友氏の氏神であるという。園城寺が創建当初大友氏の氏寺だったことを考え合せると、その可能性は強ちのものではない。

 新羅明神は朝廷の崇敬を受け、971年には正4位上の神階が授けられた。神階としてはかなり高位である。

 また、源頼義(988〜1075年)の三男義光が新羅明神の前で元服し、その縁で新羅三郎義光と名乗ったのもおもしろい。ちなみに、新羅善神堂南側に新羅三郎の墓がある。(朴鐘鳴・同志社大学自主講座「朝・日関係史」顧問)

[朝鮮新報 2010.9.6]