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くらしの周辺−「チョソンサラム」の権利

 私は「在日」という言葉が本当に嫌だ。この言葉がなければ、もっと真っ直ぐに生きられるだろうにと。かつて、朝鮮人のことを蔑んで「朝鮮」と呼びつけてきた、朝鮮人に対する「非人間化」の言葉が重なる。事態はもっと悪いかもしれない。言葉とは、人を締めつけるものではないはずなのに。

 問題を冷徹に見すえている読者も多いだろう。徐勝は最近の仕事のなかで次のように著している。「出獄して、20年ぶりに日本にもどって驚いた。在日朝鮮人が『在日』と呼ばれるようになり、在日論が書店の店頭を埋め、『在日』は最も安直に便利に使われる言葉のひとつになった。…(中略)…『在日』は日本国民国家へとなだれを打っている。『在日』とは、つまり日本のことなのだ」(徐勝「だれにも故郷はあるものだ−在日朝鮮人とわたし」社会評論社、2008年)。

 最近、聞き取りのなかで出会ったある2世同胞は、普段の職場では通称名を使わざるをえない立場にある人だったが、私に対して語ったライフヒストリーのなかで「在日」という言葉を一言も口にしなかった。すべて「チョソンサラム」と語った。明朗なリズム。私は民衆意識の底流に出会い、素直に感動した。

 私たちは、「朝鮮」が日本において迫害され、蔑まれるかぎり、「韓国」でも「コリア」でもない「朝鮮」を言い続ける理由がある。だが、それと同じかそれ以上に、私たちは自らを固有の言葉によって表明する権利を回復していかなければならない。この道筋は自らの足場を直接掘る以外には見出せないだろう。ましてや日本社会の「知」がこれを導くことなど、絶対にありえないのである。(鄭祐宗・大学院生)

[朝鮮新報 2010.9.3]