〈渡来文化 その美と造形 26〉 オンドル |
穴太遺跡の「大造り建物」(渡来人の住居)から1キロ南西で温突状遺構が良好な遺存状態で発見された。 オンドルは、現在も朝鮮半島で使われている床暖房のことである。その構造は簡単に説明すると、床下に石を数条並べて煙道をつくり、その上に薄い板石をのせて泥を塗り、さらに特殊な油紙を張って床とするものである。室外や台所の焚き口で火をたき、その煙が煙道を通って部屋の反対側の煙抜きから出るあいだに、床下から部屋全体を温める仕組みになっている。 朝鮮半島のオンドル遺構としては、高句麗領域であった 魯南里遺跡第2号住居(慈江道時中郡・紀元前1世紀頃)、大坪里遺跡第2号住居(平安南道北倉郡・1〜3世紀)、東台子遺跡(中国吉林省輯安県・4世紀末)、定陵寺跡(平壌市力浦区・4世紀末)、扶蘇山城内第3号竪穴式住居(忠清南道扶余郡・百済時代)、渤海の上京龍泉府(中国黒龍江省寧安県・8世紀後半)で発掘されている。 上記以外では平安北道寧辺郡細竹里、慈江道中江郡土城里でオンドル遺跡が発見され、その始源は紀元前2世紀を少しさかのぼるのではないか、とする見解が朝鮮の研究者から出ている。 945年編さんされた中国の「旧唐書」高句麗伝には、「冬の月にはみな長坑を作り、下から火を焚いて暖を取る」とあって、7世紀の高句麗ではオンドルが一般に普及していたことがわかる。 穴太遺跡で発見されたオンドル施設は3基で7世紀前半に造られたとされている。もっとも遺存状態の良いオンドルは、東西約8メートル、南北6メートルにわたり、高さ0.3メートルも盛土上に造られていて、その構造は焚口(幅0.5メートル、高さ0.15メートル)と燃焼室(縦0.7メートル、横0.8メートル)と煙道(長さ4メートル)から構成されている。煙道は燃焼室の左寄りに付き、2メートルまっすぐ延びたのち、右側に折れていた。現在このオンドル遺構は大津市歴史博物館の前に移築展示されている。これは百済(扶蘇山城のオンドル遺構)のものに最も近い。 また日吉大社境内に「竈殿社」があることなど、カマド信仰と百済系渡来人には密接な関係があったと思われる。オンドルは百済渡来人の居住地域にふさわしい遺構と言うべきである(以上、朴鐘鳴「滋賀のなかの朝鮮」中の趙龍燮の文による)。 また、奈良県高市郡高取町の「大壁造り建物」の跡地である清水谷遺跡(5世紀後半)、観覚寺遺跡、森カシ谷遺跡からもオンドル遺構が発掘された。日本全体では九州13、中国2、近畿18、関東1、北陸1(23棟分が出た)カ所から発見されたという(本紙2005年2月11・18日付に李相大紹介)。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表) [朝鮮新報 2010.8.31] |