「不屈の心育んだ庭」
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ウリハッキョに学んだことが、人生の困難を打開する原動力となったと語る権さん |
栃木県宇都宮市で実業家の夫・姜進赫さん(80)とともに歩んできた権英淑さん(75)。女性同盟栃木県本部委員長(非専従)を退任後も、顧問としてさまざまな活動に汗を流している。
とりわけ、この10年来、夏場を除いて毎月平均350キログラム(暮れには500キログラム)のキムチ漬けをウリハッキョのオモニたちと力を合わせて続けてきた。そして、多くの協力者を得て、その収益をすべてハッキョに寄付。「協力してくれるのは、ほとんどが日本の人たち。毎月待ってくれている人がたくさんいるのよ。『おいしかった』と言われると疲れも吹き飛んでしまう」と語る。
白菜を洗い、切り、塩漬け、「秘伝の薬念作り」などキムチ漬けのすべての工程に携わってきた日々。10年を過ぎてさすがに次世代のオモニたちに引き継いだが、「みんなの力になっていることがうれしい」と相好を崩す。
夫が手広く営む事業を支えながら、その合間を縫って、大量のトウガラシ、ニンニクなどの材料と格闘し、できあがった後は、販路の拡大にも精を出す。いっときも手を休めず、ひたすらエネルギッシュに動き回る。「これが性に合ってるのよ」と笑顔を絶やさない。
「一粒の大豆でも分けて」
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家にいても毎月のキムチ漬けなど座る暇もないほど多忙な権さん |
権さんがどんな仕事にも優先して、大切にしてきたウリハッキョ支援活動の原点は何だろうか。それは、解放翌年の1946年、栃木県芳賀茂木に造られた朝聯初等学校4年から民族教育を学び、3年後の49年4月、創立間もない東京朝鮮中級学校に入学して草創期のウリハッキョに通ったという限りない自負心である。
「朝聯芳賀支部委員長だったアボジは民族心の篤い人であった。慶尚北道安東出身で、書堂で学んだ教えだと聞いたが、『たとえ一粒の大豆でも兄弟、村の人で仲良く分け合って食べなさい』というのが口癖。そんなアボジだったから、解放後、栃木の民族教育の礎作りに献身し、長女の私をその学校に真っ先に送り出してくれた」
民族の尊厳を取り戻そうとする父母の強い後押しを受け、権さんは東京朝鮮中級学校に入学。卒業までの3年間、女子寮で過ごした。「学友たちは解放の喜びと希望にあふれ、祖国の再建を担おうとする気性と向学心にあふれていた」とはるかな記憶を手繰り寄せる。
試練が続く。49年、米国と日本の反動の手によって、朝聯は強制解散。同年10月、朝鮮学校に「閉鎖令」が出され、翌月学校は閉鎖に追い込まれた。
「そんな状況でも私たちは、連日デモに出て、必死に闘った。生徒を威圧し、取り締まる警官らに『自国の言葉を学ぶだけなのに、なぜ追い払おうとするのか』とか、『あなたにも子どもがいるでしょう。わが子がこんな目にあったら悲しくないの』と怒りをぶつけたものだった」
当時の東京朝鮮中級学校には、青森から九州まで日本各地から来た生徒が学び、学校を守ろうとする気概は天を衝くほどだった。
51年3月のある日。武装警察約1千人に学校が襲撃され、多くの生徒たちが負傷。このとき、権さんは警官に棍棒で腰を激しく殴打され、歩行困難となり、板橋自由病院に担ぎ込まれた。「まる一日意識が戻らず、目が覚めたときには、栃木から駆けつけたオモニが泣いていた」。
差別の理不尽さが心の奥底に焼きついた。その事件は少女の胸に不屈の闘争心を燃やし、何があっても「朝鮮人として誇り高く生きていく」という強い信念を植えつけた。
平壌にボウリング場
その得がたい体験がその後の人生を決めたと語る権さん。まだ幼い弟妹に民族教育の道を開くために自らの進学を断念し、暮らしを支えるために必死で働いた。17歳の頃から母を手伝い豚飼い、どぶろく作りはもとより、自分でうどん屋、おしるこ屋、パチンコ屋まで開いた。
「チャレンジ精神かな。やるからにはと、何にでも全力投球したもの」
両親と兄弟は59年、第一次帰国船で祖国へ。その後、結婚して、わき目もふらず働き続けた夫妻は、2年後には金婚式を迎える。
権さんの名を轟かせたのは、93年、苦心の末に平壌にオープンさせたボウリング場であろう。「平壌市民に健全な娯楽とスポーツの場を提供したいという祖国の思いに応えられて本当によかった。長くボウリング場経営に携わった夫の後押しがあったからこそ実現できた」と語る。夫は家族が帰国した妻を表舞台に立てて、自らは黒子に徹した。「祖国の人々に少しでも役に立ったこと、また、そのことを家族みなが心底よかったと思ってくれている」と事業開始から17年を振り返る。
貧乏のどん底にも耐え、八方ふさがりの日もあった。しかし、どんなときにも「民族教育で培ったエネルギーと祖国への思いが支えになった」と大輪の笑顔で語る。(文と写真・朴日粉) [朝鮮新報
2010.8.31] |