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朝鮮の子どもたちを愛した日本人教師 教育者 上甲米太郎

生涯変わらぬ姿勢で寄り添う

冶炉公立普通学校の卒業式(前列中央が米太郎さん。大月書店刊「植民地・朝鮮の子どもたちと生きた教師 上甲米太郎」より)

 1910年の「韓国併合」以来、日本は、一貫して露骨な朝鮮人の「日本人化」を進めてきた。「皇国臣民の誓詞」斉唱、神社参拝、徴兵制、強制連行、強制労働、「慰安婦」…。中でも朝鮮語の禁止と「創氏改名」は、朝鮮の民族性抹殺政策の象徴とも言える。

 劇団・青年劇場では、レパートリーの一つとして「創氏改名」をテーマにした「族譜」(原作=梶山季之、脚本・演出=ジェームス三木)を上演している。今年も9〜12月に全国で巡演される予定だ。

 俳優の上甲まち子さんは、「族譜」で、息子がでっち上げで投獄され、本物の闘士になる母親・李慶淑を演じている。

 まち子さんは1937年、慶尚南道の晋州で生まれた。彼女の父・米太郎さんは、朝鮮の子どもたちが通う普通学校(小学校)の教師で、キリスト教の博愛主義に立ち貧しい子どもたちを教えた。

 朝鮮人の生活の苦しさをなんとか解消したいと考え始めた米太郎さんは、日本による朝鮮の植民地支配に疑問を持つようになる。30年に治安維持法違反容疑で検挙され、西大門刑務所へ投獄。2年間の獄中生活を強いられた。41年に日本へ戻ってからは、九州・三井三池炭鉱などに労務係として勤め、朝鮮人労働者の相談に乗った。戦後もその姿勢は変わらず、生涯、朝鮮人民とともに歩んだのである。

 まち子さんに話を聞いた。

植民地朝鮮へ

俳優の上甲まち子さん

 米太郎さんは、1902年に愛媛県宇和郡で父・景吉、母・淑の長男として生まれた。農業経営の失敗から一家は没落。両親が朝鮮へ渡ったため、米太郎さんは1920年に朝鮮へ。3・1運動後、日本は文化政策を取り、日本人教師が大量に必要になっていた。米太郎さんは、京城高等普通学校附設臨時教員養成所に入学する。

 「お金のない人には教師か兵隊の道しかなかったので教師を選んだのでしょう。当時、師範学校を出た人の中には出稼ぎ気分の人が多くて。養成所では『朝鮮人を立派な日本人に教育する使命感に燃えた人』『朝鮮の土となって働く教師』を必要として、日本人が一人もいないところへ『決死の覚悟』で行く人を養成していた。現地では何があるかわからないから、生命保険に入るように言われて、ビビッてやめてしまう人もいたという」

 実習のときに1年生を受け持った米太郎さんは、子どもたちの愛らしさに打たれ、「東洋のペスタロッチ」になろうと、張り切って咸安に向かった。

 22歳の若さで慶尚南道陜川郡・冶炉公立普通学校に校長として赴任。子どもたちの生活は貧しく、病気になっても医者もいない。米太郎さんは、貧乏について否応なく考えざるをえなくなった。その後、慶尚南道泗川郡・昆明公立普通学校校長だったときも、春になると食べ物がなくて草のお粥を食べる朝鮮人の暮らしに胸を痛めている。

 「米を作っても食べられない。田んぼを売って勉強させても就職先がない。一体どうしたらよいのか悩んだ父は、読書によりキリスト教社会主義に傾いていった」

 やがて米太郎さんは、マルクスの「資本論」やエンゲルスの「空想から科学へ」、社会主義的雑誌「戦旗」、プロレタリア教育誌「新興教育」などを読み始め、朝鮮人の教え子たちに読書会への参加を呼びかけるようになっていった。それが「共同謀議」としてデッチ上げられ、治安維持法違反で逮捕・起訴されることに。1930年12月5日のことだった。

西大門刑務所に

「植民地・朝鮮の子どもたちと生きた教師 上甲米太郎」(大月書店刊、2400円)

 彼は極寒のソウルの冬を2回西大門刑務所で過ごすことになる。そこで「間島パルチザン」の人たちに会った。

 「独房に入ったら、壁を叩く音がした。何だろうと聞くうちに、これはハングルだ! と気づいた。『お前は誰だ、お前は誰だ』と言っている。解読できるようになると、新しく入ってきた人に教えるようになった。そんな中、ある朝鮮人に『あなたのやったことは間違いではない』と励まされたそうだ」

 刑期を終えた米太郎さんは、特高警察に監視される生活の中で、朝鮮語が堪能なことを理由に41年、北海道・釧路の三井炭鉱に強制連行された朝鮮人労働者の通訳として動員される。

 「逃亡して逮捕された朝鮮人の通訳に呼ばれて、『不利になるようなことを言っちゃ駄目だ、こう言え』と言ったら、朝鮮人とのやりとりが長すぎると怒られたと、とても憤慨していた。当時、父と働いていた日本人は、彼が朝鮮人労務者と酒を飲んで一緒に踊っていたのを見たことがあると証言している」

 44年、石炭の海上輸送が厳しくなるにつれて、朝鮮人労務者と共に九州の三井三池炭鉱に移ることになった。そこで敗戦を迎えた。

 1950年7月、父の代わりに朝鮮戦争反対のビラをまいていた19歳の長男が逮捕された。戦後まもなく解雇された米太郎さんは、レッド・パージされたメンバーらで紙芝居屋を結成、約30家族の生計を立てながら、三井炭鉱周辺の朝鮮人部落を中心に大牟田市内を回っていた。64年に家族は東京へ転居したが、母親の介護を理由に米太郎さんは大牟田に残り、高砂町の朝鮮人部落で暮らした。日朝協会会員としても活動していた。母親を看取り東京へ転居、71年12月には金嬉老事件の裁判で、弁護側の証言台に立ち、朝鮮での差別がどのようなものであったかを証言した。

 「父は、朝鮮人に、人はどう生きねばならないかを教わったのだと思う。若くして教師になり、朝鮮人の生徒を愛し、生徒たちから慕われ、朝鮮人女性と恋もする中で、日本による朝鮮の植民地支配に疑問を感じ、朝鮮の独立を支持するようになった。朝鮮の人に寄り添う姿勢は生涯変わることがなかった」

 米太郎さんの平和を願う心、朝鮮を思う気持ちはまち子さんの胸にも受け継がれている。

 「朝鮮はいまだ停戦状態に置かれていて、戦争状態が続いている。南北の統一が早く実現してほしいと願っている」

父の志を継いで

 まち子さんが演劇に興味を持つきっかけを作ったのも米太郎さんだった。炭鉱には東京から有名な劇団が慰問に駆けつけた。幼いまち子さんは次第に演劇の世界に引き込まれていった。

 青年劇場では来月から、第102回公演「島」を上演する。

 舞台は1951年の瀬戸内の小島で、広島で被爆し九死に一生を得た教師の姿を通して平和へのメッセージを伝える。まち子さんは劇中、死体の中から子どもを救い出す母親役を演じる。

 「芝居を通じて、人々が当たり前に生きていけるような世の中を作れたら。そのためにはどうしたら良いか…。私は、芝居を通して少しでも社会の進歩に貢献していきたい」(文・金潤順、写真・盧琴順)

※ペスタロッチ(1746〜1827)スイスの教育実践家。フランス革命後の混乱の中で、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事した。

青年劇場第102回公演「島」

作=堀田清美、演出=藤井ごう。9月4〜12日、東京・新宿の紀伊國屋サザンシアター。一般5千円、30歳以下3千円、問い合わせ=TEL03・3352・7200

[朝鮮新報 2010.8.24]