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〈生涯現役〉 鄭大世選手の活躍喜ぶ祖母−金弘善さん

「朝鮮人だって勉強する権利がある」

まだまだ元気な金さん

 愛知県名古屋市内のマンションに1人で暮らす金弘善さん。91歳とは思えないほどしっかりとした足取りで玄関先に記者を出迎えたかと思うと、力強く腕をつかみ、慶尚道なまりの朝鮮語で「よく来たね」と笑顔を浮かべた。

 サッカーのW杯南アフリカ大会に朝鮮代表として出場し、世界に名を馳せた鄭大世選手がインタビューでよく口にしたハルモニとはまさに金さんのこと。大世選手の実家は金さんの家からすぐ近くにある。学校帰りなどにしょっちゅう遊びに来ていた。幼い頃からハルモニの側で自然に民族の心を身につけた大世選手。

 「いつも近くにいたから会えなくなるのが淋しいが、ドイツでさらに活躍し、世界中にその名を、そして朝鮮の名を轟かせられるよう頑張ってほしい」と、大世選手の話になると、自然と目を細めて声を弾ませる金さん。

 しかし、その半生は波乱に満ちたものだった。

生きる道を求め日本へ

高校時代の鄭選手との一枚

 今も記憶に鮮やかな80年前の出来事−。

 金さんが11歳の頃、故郷の村に民族学校が設立された。しかしナイフで床をズタズタに切り裂くなど、日本の警察の弾圧でたったの5日間で学校は閉鎖されてしまった。家に畑を耕す父は不在、食べ物もなく、学校にも通うことができなかった。

 金さんが渡日したのはそれから2年後の1932年2月26日、13歳のときだった。ある日突然、何の書置きもなく仕事を探しに日本へ発った父と3年ぶりにやっと連絡が取れ、祖父母、オモニ、妹、弟と一緒に日本へ向かった。

 しかし、日本でも貧しさから逃れることはできなかった。板で作った家にわらを敷き、寒い冬は毛布のかわりに蚊帳をかぶって寝た。

 日本に来てすぐに紡績工場に連れていかれた。そこでは慶尚道出身の20歳くらいの女性約60人が働いていた。当時14歳だった金さんは、もともと体が大きかったため、目をつけられたのだった。

 住み込みで働き、家族とは半年に1度しか会えなかった。家族に会いに電車に乗ったが、日本語が読めないため乗り方がわからず、何度も同じ道を行ったりきたりしているうちに一日が過ぎてしまうこともあった。朝から晩まで働いても半年間で稼げるのは、靴下1足買えば半分も残らないほどの低賃金だった。

たび重なる不幸

 1945年6月9日、金さんが26歳の頃、名古屋大空襲のひとつ、熱田空襲に遭遇。それまで元気だった夫は、B29の空爆の煙を吸ってからか、高熱を出し寝込んでしまった。その病気がうつるといけないからと日本の兵隊に連行され、5日後には白い箱に入った夫の骨だけが金さんの手元に帰ってきた。「天と地がひっくり返るような思いをした」と当時の衝撃を語った。

 数年後、再婚して広島県大竹市の朝鮮人部落へ移住。しかし2人目の夫も病死。手元には5人の子どもが残された。

学校建設事業に貢献

 1949年10月19日、日本当局により学校閉鎖令が敷かれ、在日朝鮮人に対する弾圧はいっそう強化されていった。

 2カ月後、「朝鮮人だって異国の地で勉強する権利がある。そのためなんとしてでも学校を作らなくては」と、大竹の朝鮮人部落の中で空き部屋を使った小さな家庭学校が開かれた。その資金集めに金さんも協力した。広島朝鮮第一初級学校の前身である。

 「お金がある人はお金を、知識がある人は知識を、力がある人は力を」のスローガンを掲げ、全同胞が奮い立ち、1953年9月9日、広島朝鮮中級学校が設立された。「私はお金もなければ知識もない。でも力だけはあったんだ」と、学校建設の現場で懸命に働いた。まだ1歳だった息子を柱に帯でくくりつけ、朝から晩まで働き、それが終わると、お腹をすかせた娘たちが待つ家へと急いだ。

 ある日、日本の武装警官隊が早朝から6〜7台のジープに分乗して建設作業を妨害しに来た。警察に「けんかとり」とあだ名をつけられるほど、学校を守るため体を張ってたたかった。

 金さん自身、朝鮮語を話すことはできたが、読み書きができなかった。ある日、天井にぶらさがる裸電球をふと見上げると、それが朝鮮語の評≠ニいう文字に見えた。その瞬間「朝鮮語を習わなくては」と思いたち、成人学校に通いはじめた。どんなに疲れて体が痛くても一日たりとも休んだことはない。

 「朝鮮人として生きていくためには朝鮮の言葉と文字をしっかり勉強しなくちゃいけない。だから子どもたち5人ともウリハッキョに送ったよ」と明快だ。

 生涯ただ、祖国の統一だけを願い同胞社会に貢献してきた。今では大世選手はじめ孫たちが代を継いで民族の魂を守っていることにこのうえない喜びを感じている。(文と写真・尹梨奈)

[朝鮮新報 2010.8.21]