〈100年を結ぶ物語・・・人々の闘いの軌跡・・・E〉 姉妹で教壇に |
「歴史を知り、民族愛する心育む」 岐阜朝鮮初中級学校で情報(コンピュータ)を教える崔玲姫先生(47)と、茨城朝鮮初中高級学校高級部で数学を教える崔玲淑先生(45)は教員姉妹である。
活動熱心だった両親
2人の父・崔在樹さんは、1944年、日本の植民地支配下にあった朝鮮から19歳のとき渡日、解放後帰郷し、馬山の鉄道局に勤め、労働運動や建国運動に関わっていた。そして朝鮮戦争を準備し左翼運動の弾圧にかかった米国と保守勢力のレッドパージを逃れ再び日本に来たという。姉の玲姫先生は、「父は生前、酒を飲むと当時のことを思い出し、『追跡を逃れ仲間と一緒に北やサハリン、中国にグループごとに別れて行こうとしていたのに、船に乗れず仕方なく日本へ来た』と話していた。その後茨城県の国語講習所、民族学級で教べんをとり、子どもたちに朝鮮人としての誇りを持たせようと尽くしていた。また、統一戦線運動にも熱心であった」と話す。 母の徐錫金さんもまた、父と同じ44年に日本へ渡った。当時10歳だった。 母方の祖父は、朝聯、民戦、総連の活動家として働いた人で、神奈川で朝鮮学校教育会会長の仕事も永く務めた。その祖父の紹介で両親は出会う。 女性同盟の活動に熱心だった母は、成人学校で学び、2男2女の子育てをしながら、中央学院、関東学院などで開かれる講習会にも参加した。後に夫が心臓を患うと、家業の遊技業を営むようになる。彼女は、同胞の若者たちを働き手として受け入れ、よく面倒をみていたという。
あこがれの先生
崔姉妹が朝鮮学校の教師を夢見るようになったのは、中学時代の数学教員・「枝玉さん(2世)の影響が大きい。 妹の玲淑先生は、「「先生の授業は本当におもしろかった。今でも記憶に残る印象深い授業は、図形の証明に関するものだ。先生は自分が準備してきた内容をまず教えるのではなく、生徒たちにいろいろ討論させ『証明』させた。子どもたちの『証明』を先生はとても喜んでくれた。その姿は今も忘れられない」「ピタゴラスの定理にも感動した。当時は数学が苦手な生徒も多かったけれど、「先生に3年間教えてもらうと、ある程度ついていけるようになっていた。「先生は今も私の憧れだ」と語る。 崔姉妹の授業に共通するのは「わかりやすいこと」と「自分の力でやり遂げる喜びを感じさせる」ことである。2人は今、岐阜と茨城とに離れて暮らすが、顔を合わせると学校の話になり、教育の話になる。栃木で暮らす長兄の妻も教員で、姉妹の夫も元教員。皆が集まると話題が尽きないという。 01年に次兄が亡くなり、02年、03年と続けて父、母が他界した。姉妹が続けて朝鮮新報に教員として紹介されると、親せきからは「両親が知ったらどれほど喜ぶか」と電話がかかってきた。両親は、娘たちには「結婚後も可能なかぎり教員を続けてもらいたい」と願っていた。姉妹の夫も「生涯教員を続けてほしい」と願い、住居を決めるときにも学校から近く通いやすいところを最優先に選ぶなどして、働く妻を支えている。 1世の姿を見て育ち、7.4南北共同声明、6.15北南共同宣言発表に沸き立つ同胞たちの姿を見てきた玲姫先生は、「1世たちは国を奪われた苦しみを身を持って知っていた。ゆえに祖国への思いもとても強い。両親は生前、何よりも大切なのは愛国事業だと言い、惜しまずお金も力も出してきた」と話した。 今、教壇に立ち、次世代を担う子どもたちを前に、彼女は時に戸惑いを感じ、責任感を感じ、使命を感じると言う。 「W杯応援時に、生徒たちは身近にいる日本の選手を応援する。チームとしてはウリナラを応援しても、好きな選手は他にいる。現在を生きる同胞の子どもたちに過去の植民地支配の辛い記憶はない。彼らにとって日本は、『住みよい国』『先進国』との意識もある。しかし、その反面、『高校無償化』除外のように在日同胞をめぐる根深い差別にも気づいている。歴史を知り、現在を知り、自分や祖国、民族、そして組織を知り愛する心、大切に思う気持ちを育てていきたい。私が両親や教員たちから学んできたものを、子どもたちにも伝えていきたい」(金潤順記者) [朝鮮新報 2010.8.20] |