〈100年を結ぶ物語・・・人々の闘いの軌跡・・・D〉 教育者3代 |
先日、大阪・堺市で開かれた第32回コマチュック大会に、栃木朝鮮初中級学校が12年ぶりに単独チームで出場した。2年前に「復活」したサッカー部のメンバー11人と学父母、関係者らを大型バスに乗せて、往復1300キロを超える道のりを走ったのは金弘己先生(41)だ。今年は初級部1年生6人を受け持っているという。2年前取材したときには初級部2・3年の複式学級を受け持っていた。「大変でも投げ出すことはできない。教員たちは歯を食いしばって現場を守っている」との言葉が印象深かった。
民族の誇りを論されて
金先生の祖父は元教育会の専従職員、幼い頃に亡くなった父は教員、叔父そして叔母もまた教員であった。 祖父の金在憲さんは1910年、忠清北道忠州郡の貧農家庭で生まれた。8歳の頃から村の書堂に通い千字文を学ぶが、日本の皇民化政策が進められる中、強制的に日本学校に通わされる。26年2月、15歳で単身日本へ渡り大阪のボタン工場で働いた。工場主の露骨な差別を受けて、「小さな工場でさえ迫害と蔑視を受けるのに、日本各地の大小企業、工場で、同胞たちはどれほどひどい仕打ちを受けているだろう。そう思うと、悔しさで胸が張り裂けそうだった」と後に述懐している。 在憲さんは、ボタン工場を辞めて29年9月に上京。世田谷区下北沢の駅前の朝日新聞販売所で働きながら、神田の電気専門学校で学んだ。この新聞店で運命的な出会いをする。 ある日、店主と共に「張」と名乗る朝鮮人がやってきた。彼は在憲さんに故郷はどこか、名は何かと朝鮮語で聞いた。在憲さんが日本語で答えると、突然「稲妻のような平手打ち」が頬を打ち「相手が朝鮮語で話したら朝鮮語で答えろ!」と彼は言った。 在憲さんを弟のように可愛がってくれた張氏は、「金日成将軍が北満で祖国の解放と独立のため戦っている。朝鮮人は生きても朝鮮人、死んでも朝鮮人として、民族の誇りを持たなくてはいけない」と諭した。その後、張氏は姿を消したが、金将軍の話は在憲さんの胸に深く焼きついた。
初代、朝鮮学園長に
45年8月15日。同胞たちと祝杯を交わしながら解放の喜びに浸っていた在憲さんは、「その場に集った同胞たちはみな、朝鮮語を話し、朝鮮の歌を歌っていた」と回想する。 同年11月、同胞たちは近所の寺を借りて「学園設置」のための準備に取りかかった。朝聯結成の知らせも飛んできて、在憲さんは、朝聯世田谷支部松原分会分会長兼「4丁目学園」の責任者として、子どもたちの教育に携わるようになる。その後は「学校閉鎖令」、「都立」朝鮮学校など、日本の民族教育抹殺政策に果敢に立ち向かい、総連結成後も世田谷支部副委員長、渋谷・世田谷商工会理事長、東京朝鮮第8初級学校、東京朝鮮第7初中級学校教育会会長などを担ってきた。 在憲さんの5人の息子のうち長男、次男は教師になり、三男、四男は朝鮮へ帰国、五男は在日本朝鮮蹴球団(当時)の選手になった。長男の進憲さんが金弘己先生の父、次男の金順彦さんは東京朝鮮学園の理事長である。 進憲さんは、学生時代、器械体操の選手だった。屈強な体格の持ち主で、卒業後は東京朝鮮第6初中級学校で体育教師をしていた。しかし、36歳の若さで難病のベーチェット病にかかり他界。当時金弘己先生は初級部3年生だった。家族を失った金先生は、祖父母と叔父家族のもとに引き取られて成長する。初孫の金先生を可愛がっていた祖母も父の2年後に病死。その3年後には祖父も他界した。金順彦理事長は、6年の間に兄、母、父の喪主を務めた。彼もまた、父の遺志を継ぎ、兄亡き後、夫婦で甥を含む4人の子どもたちを育てながら半生を民族教育に捧げてきた。金先生が教師を志したのは自然な流れだったのかもしれない。 「韓国併合」から100年。在憲さんが生まれて100年を数える年に、金理事長(67)は、朝鮮学校生徒および教職員たちと、「高校無償化」除外反対運動の先頭に立って闘っている。「父がもし生きていたなら何と言うだろうか。日本は100年経ってもまだわれわれを苦しめるのか! と、憤激するだろう。そして、子や孫、曾孫の代にまで朝鮮人を差別し、朝鮮人が朝鮮人として生きるために学ぶ権利を踏みにじろうとすることを許せないというに違いない。日本は、過去も現在も、在日朝鮮人の民族性をじゅうりんしようとしている。良心的な人たちもたくさんいるが、政治家たちが悪すぎる」と話していた。(金潤順記者) [朝鮮新報 2010.8.11] |