〈渡来文化 その美と造形 25〉 飛鳥寺・飛鳥大仏 |
仏教が百済から日本に公的に伝えられたのは538(聖王16)年である。 それに伴って、日本最初の本格的寺院、飛鳥寺(法興寺)の建設が587年に企画され、翌年(威徳王35年)百済から僧侶、寺工(大工)、露盤博士、瓦博士、画工らが招請された。それに仏舎利や経典も加えて、さながら仏教文化の総体による創建となった。 飛鳥寺のモデルとなったのは百済扶余の王興寺であったと思われる。この寺跡は2007年調査され、飛鳥寺とは、2系統の瓦窯の存在、地下式心礎を持つ塔、1塔3金堂の伽藍配置に近い相似性、という共通性が確認された。 伽藍配置については高句麗にその遺例があるが、百済からの仏教受容、飛鳥寺建立への深い関わり、年代の近さなどからみて、王興寺モデルは説得性があろう。 王興寺の創建は577年2月である。これは、同寺の木塔の基壇跡から、威徳王24年(丁西年=577年である)「…2月、亡王子の冥福を祈り王が創建した」という銘文のある舎利容器の出土で確認された。この容器は金、銀、銅の入れ子式で、一番外側の銅器にその銘文が刻まれていた。 飛鳥寺は596年に完工した。今堂内にある釈迦如来坐像(飛鳥大仏)は鋳造年代のわかる最古の仏像で、「止利様式」(第3回 法隆寺釈迦三尊像参照)である。何度もの災火にあって損傷が甚だしいものの、昔の特徴はなお十分に見てとれる。 飛鳥寺の完成は画期的なものであった。それまでの日本建築は、植物材で屋根を葺き掘立柱に板壁で、外観を装飾することなく、全体のたたずまいは直線的であった。 そのような建築相の中、版築した基壇上の磁石の上に、瓦葺きの大屋根の荷重を支える太い柱、白ぬりの土壁、緑の連子窓、金属製の飾り金具、そして丹青で鮮やかにぬり分けられた大柱や垂木や肘木などを具えた建築群−五重塔、講堂、3カ所の金堂、それらを取り囲む中門のある築地塀などが忽然として出現した。しかも堂内には金色まぶしい仏像が鎮座していた。人々は驚いたであろう。 時の絶対権力者であった蘇我馬子は、寺の落成式に、家臣百人ともども「百済服」に身を飾って参加したので、群集した人々がどよめいた、という。 「エキゾチック」「カッコイイ」と言ったのかも。さもありなん。(朴鐘鳴・同志社大学「朝日関係史」自主講座顧問) [朝鮮新報 2010.8.9] |