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〈100年を結ぶ物語・・・人々の闘いの軌跡・・・C〉 「歴史の語り部」

波乱万丈のすえの幸せ

記憶力、話しぶりに衰えはない李性好さん

 埼玉県に住む文暎順さんが心から尊敬するのは、大阪・生野区の高齢者専用住宅に暮らす母の李性好さん(90)である。今年5月に卒寿を迎えた李さんのお祝いには家族で駆けつけた。2人は実の親子ではない。文さんが17歳のときに、父と再婚して家族となった。

 「オモニがアボジと再婚したとき、一番下の弟は中学2年だった。いきなり5人の子持ちになって苦労が絶えなかったと思う。オモニは今では段々少なくなってきた済州4.3事件の生き証人でもある。悲惨な歴史と体験をこれからも多くの人たちに語り継いでいってほしい」と語る。

 60年代に東京・荒川の女性同盟支部委員長、後に同東京本部委員長などを務めた李さんについて、「オモニは頭の回転が速く、男勝りで度胸がある。弁も立ち、人をひきつける人柄なので、家にはいつも人が訪ねてきていた。そんなオモニがいつも誇らしかった。一人の人間として尊敬してやまない」と評す。いま、大学で研究に励む2人の息子たちにも、ハルモニの生き方を受け継ぎ、学問の分野で未来を切り開いていってほしいと心から願っている。

女「ガキ大将」

卒寿に駆けつけた子や孫、親せきたちに囲まれて

 娘がかくも尊敬するオモニの生き方とは−。

 李さんは済州島の最南端・翰林邑の出身。貧しい農家の5人兄妹の真ん中に生まれ、小さいときから女ながら「ガキ大将」。後に夫となった1歳年下の申燦鎬さんはじめ、みなを引き連れて島の山野をかけめぐった幼い日の思い出話をすると自然に笑みがこぼれる。

 5歳でイモ(叔母)の家に子守りとして預けられ、辛い労働に明け暮れた。日本に出稼ぎに行っていた父が騙されて他人の保証人になり、ばく大な借金を背負ったため、兄姉も出稼ぎに日本へ発った。李さんは幼かった弟妹の子守のために実家に戻された。8歳の頃。海女の母を助けて、こまねずみのように働いた。

 15歳のときには、18歳だと偽って、和歌山の紡績工場で働くため渡日。懐かしい父と兄姉とも会いたい一心だった。姉がいた紡績工場の女工として職を得た。綿花のゴミとホコリが舞う劣悪な環境の下、立ちっぱなしの長時間労働と粗末な食事。3年後、肋膜炎にかかり、母の待つ島に帰郷した。18歳。

 母の懐でやがて病を癒した李さんは、申さんと結婚。

夫の死、絶望感を乗り越え

 やがて解放を迎えた済州島。日本軍が去った島では、新しい支配者・米軍政への怒りが島全体を覆っていった。

 1946年10月。大邱人民抗争の影響が済州島に波及。李さんは各戸を回り、女性たちをビラ張りなどに動員した。しかし、日増しに状況は悪化、米軍政の手先や警官らから付け狙われた。そんなとき、夫が警察に逮捕され、連日拷問を受けた後、やっと釈放。2人は信念を曲げることなく、その年の暮れ、南朝鮮労働党に入党。

 47年3月1日。第28回目の3.1節記念済州大会には約3万人の大群衆が済州北国民学校の運動場に集結。平和的なデモ行進に、突然、騎馬隊が飛び出してきて無差別発砲。6人が射殺され、多くの負傷者が出た。「流血の惨事を目撃して人々は怒り、遺体をかついで抗議デモを断行した」と李さんの怒りは今も収まらない。

 翌春、米軍政と南朝鮮の単独選挙に反対闘争がいっそうの高まりを見せるなか、運命の日、4月3日を迎えた。

 李さんは日本に渡り、同志たちの食料や靴を調達してくるよう指示された。だが帰途、警察に捕まった。その頃は「アカ」を口実に愛国者たちが次々に処刑されていった。李さんも、革の鞭で1週間全身を打たれたが、義父の奔走によって生還。

 だが、夫は逮捕され、身柄を大邱刑務所に移送され、凄絶な拷問の末に帰らぬ人に。「夫の鼻はぐしゃっと折れ、片方の眼球はくりぬかれて顔中が腫れ上がり、およそ生きた人間の顔とはほど遠かった。骨と皮しかない両手首には手錠が食い込み、ざくろの実が割れたように生々しく肉がみえた」。祖国統一をひたすら願い、行動した28年の短い生涯だった。

 壮絶な体験から来る絶望感と愛する人を奪われた喪失感…。李さんは家族の説得を受けて、49年末、再び日本へ。そして、女性同盟の活動家となった。後に47歳で再婚。縁あって家族となった子どもたちの成長を見守り、みな結婚させた。その矢先にまた夫に先立たれた。15年の結婚生活だったが、それでも必死に家族を守りぬいた李さんを慕って、子や孫たちから手紙や贈り物が届き、そして大勢の親せきが常に米寿や卒寿のお祝いに駆けつける。今、李さんの日常は、波乱万丈のすえに手にした幸福感に包まれている。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2010.8.9]