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〈高句麗の豆知識-D-〉 高句麗遠征軍300万

乙支文徳将軍の肖像画(朝鮮画報社刊「朝鮮の名人」より)

 総兵力113万3800人、これは隋書にある数字である。全軍の総司令官は煬帝、右翼が宇文術、左翼が于仲文の遠征軍。

 兵士1人に2人くらいの食糧等の輸送部隊がついたので、300万の大軍となった。

 30軍団を編成して、1日1軍団4万人ずつ送り出したので、先頭としんがりまでの隊列は百四里(約400キロ)になったそうだ。

 煬帝は水軍を来護兒に与えて平壌に向かわせた。

 612年! 東アジア戦史上最大規模の高句麗と隋の雌雄を決する戦いの開始だ。

 「隋、遠征軍発つ」との知らせを受けて、平壌では嬰陽王が御前会議を開く。

 この時、御前会議に参加した軍臣一言も発せず、と言われしばらく沈黙が続いた。

 口を開いたのは乙支文徳だ。

 「三国史記」には乙支文徳について、「その世系は詳しくない。資性が沈着豪勇で知略があり、かつ文章に長じた」と短く記してある。

 名門、名家の出身ではなかったようだ。生没年月日すらわかっていない。

 しかし、幼い頃から山に入って武芸を磨いたとか、虎を素手で殴り殺したとか、豪傑だと伝えられている。

 文徳は御前会議で隋を迎え撃つ戦略をとうとうと述べ、王弟の建武も同調したため総司令官に任命される。

 文徳は敵軍の長所と短所を的確に見抜く。

 敵の長所は大軍であるが、大軍であるが故に機動力がなく、指揮系統が乱れる。

 また奢りに奢っているだろうから、これを突かなくてはならない。そして一番のアキレス腱は食糧問題である。300万人の食糧を運搬するわけだが、大体30日分が限度であるという。

 文徳の戦略は持久戦を戦うということで、逆に煬帝は数を頼んで速戦即決である。

 612年1月隋の300万遠征軍派遣決定、2月先鋒軍高句麗の出城を攻める。3月遼河にて攻防戦が始まる。

 煬帝は遼河に浮き橋を造って、それを対岸まで3本のばして上陸しようとする。

 これを高句麗軍が弓で撃つ。両軍の放つ矢で空が暗くなったといわれる。

 隋軍は10数回の失敗の後に、ついに対岸上陸に成功する。隋軍の死体が河に漂った。

 高句麗の乙支文徳旗下の将軍たちはいざ決戦と身構える。すると意外にも文徳は撤退を命じる。

 遼東城に軍勢をおいて籠城させ、文徳は撤退した。

 文徳は隋軍がやがて食糧難に陥るであろうからということで、高句麗の住民を山城に避難させ、井戸は埋めさせ、穀物は一粒も残さないように指示する。これを「清野戦術」という。(金宗鎮、在日本朝鮮社会科学者協会東海支部会長)

[朝鮮新報 2010.8.6]