〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちR〉 「三大悪女」のひとり−金介屎 |
卓越した頭脳で王を魅了 奴婢から尚宮に
於乙于同、張告、そして金介屎。朝鮮王朝時代、王に寵愛され、歴史にその名を留めた「三大悪女」である。「悪女」、陳腐な表現である。金介屎は、美貌や歌舞、性的な術策のみで王を誘惑したわけではなく、飛び抜けた判断力とその頭脳で王を魅了したと伝わる。朝鮮王朝実録には彼女の容貌が年頃になっても「花開くことはなかった」とある。 金介屎は、朝鮮王朝第15代王(1608〜1623)光海君の王位継承に脅威となるその異母弟永昌大君と継母仁穆大妃の排除に努め、派閥の政敵を陥れるなど政治的手腕に長けた宮女であった。光海君の信頼を得て政治の舞台で活躍した金介屎は、幼くして入内し尚宮にはなったが、後宮にはなれなかった。 「燃藜室記述」21巻「廃主光海君故事本末 光海乱政」には「金尚宮は賎しい奴隷の娘であった(金尚宮賎隷之女也)」とある。介屎という一風変わった名前は、彼女の「ケトン(鯵極)」という呼び名の音と意味を無理に漢字にあてたものである。「ケトン」、犬の糞という意味である。大切な男子の跡継ぎの厄除けのために、わざと賎しい呼び名をつけるのはよくあることである。だが、奴婢の娘であった彼女の場合、厄除けのための呼び名であった可能性はかぎりなく低い。
父子に仕える
幼くして入内した介屎は、東宮所属の宮女であった。光海君が東宮になったのが18歳、彼女はそれよりも若かったはずである。ところが、理由は定かではないが、ほどなくして光海君の父である朝鮮王朝第14代王宣祖の女官として配置換えされている。 美貌を見染められてというわけではなさそうなので、多分相当利発だったからか、あるいは偶然であろう。光海君即位の後、彼女は王の身の回りの世話をする至密内人(宮女)として、また光海君の元に戻される。わざわざ、父の宮女であった彼女を側近く召そうとした光海君の意図はなんだったのだろうか。 東宮時代の思い出のためだろうか? それとも、自分の懐刀として? あるいは、その両方の理由からかもしれない。光海君の寵愛と信頼を得て彼女は、堤調尚宮に登りつめ、当時の実力者李爾瞻と共に、政治の表舞台に躍り出るのである。
ただ光海君のために
1613年、政敵を追いつめるため継母仁穆大妃の実家を滅し、仁穆大妃が光海君を呪詛し殺そうとしたとされる事件をでっち上げることにおいても、先頭に立ったのは彼女であった。仁穆大妃の宮女が書いたとされる小説「癸丑日記」には次のようなくだりがある。これを書き残した仁穆大妃側の悔しさと意図が露骨に現れていておもしろい。 「金介屎が私と卞尚宮を見て手を叩きながら言った。『われらを殺そうとするのを天がおわかりになり捕まえてくださったのが幸い、大殿(光海君)をどなただと心得て呪詛し奉ったというのです。天罰です。いまさら誰のせいにしようと言うのですか。呪詛をしたことは白日のもとに晒されたのだから。それでも嘘だというのですか』(中略)金介屎が走ってきて言った。『私の言ったことをお聞きになって、(大妃が)あんなに悲しまれるなんて変だわ。早く死んでしまえばすっきりするのに。(永昌)大君を王位につけ(自らの)栄達を図ろうなど、露見して当たり前、どうぞ私の言った通り死んでおしまいなさい』」 母(光海君の年下の継母仁穆大妃)を削號し西宮に幽閉、異母弟と実兄の賜死などが人倫にもとるという名分で、光海君は仁祖反正で排されてしまう。明と後金の間で卓越した平衡外交を展開、「新搏建輿地勝覽」「東國新續三綱行實」「東醫寶鑑」を刊行、赤裳山城に「史庫」を設置、仁慶宮、慈壽宮、慶コ宮などを建設するなど功績も多かった光海君。その彼が信頼を置き、寵愛した金介屎。一介の宮女であり、身分は奴婢。非人間的な身分制度の中、がんじがらめの性を生きなければならなかった当時の大多数の女性の生き方と比べると、彼女が陰謀渦巻く政治の舞台でただただ光海君のためだけに生き活躍した様はいっそすがすがしく、その短かったであろう人生も幸せだったに違いない。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者) [朝鮮新報 2010.8.6] |