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〈100年を結ぶ物語・・・人々の闘いの軌跡・・・B〉 「女の解放」

「きっと時代が変わるよ」

 福島県・会津若松市の老人ホームで暮らす千徳淑さん(83)。七夕の短冊に「先立った夫に会いたいな」と書いたと童女のような笑顔を見せた。

「家制度」に縛られて

亡き夫ともう一度会いたいと語る千さん

 千さんが生まれたのは、慶尚南道固城。1927年、日本の植民地時代の真っただ中だった。女性を人間扱いしない「家」制度に縛られていた頃だ。本家の跡取りよりも先に産声を上げた分家の千さんを見て、「くるくる目が動くのが憎いね、刺してやりたいよ」と一族の長老が暴言を吐いたと聞かされた。まだ幼い頃、川で洗濯するときも、本家のハルモニや伯母(コモ)よりも上流で洗濯してはいけないと言われた言葉が70数年経っても忘れられない。

 8歳のとき、東京の芝公園で薬局を営む大叔父を頼ってアボジに連れられ東京へ。アボジはリヤカーを引き、古物商に精を出して必死に家族を養った。肺病を患ったオモニを看病しながら、後に神田ですし屋を、有楽町の日劇前で朝鮮料理店を営むほど成功を収めたことも。「アボジは厳格でありながら、一方では非常に開かれた考えの持ち主」だったと懐かしむ。8人の子だくさんの苦しい家計の中から、千さんを尋常小学校(6年)、高等小学校(3年)に通わせた。アボジは「いまはこうして虐げられているが、お前たちが生きる時代はきっと変わっているはずだ」と娘を励まし続けた。

 日本の尋常小学校1年に入った千さんが初めて習った「国語」の教科書の第1nには「サクラ」の歌が載っていた。

 「サイタ/サイタ/サクラガ/サイタ」。ついで習ったのは、「ヘイタイ」の歌。「ススメ/ススメ/ヘイタイ/ススメ」と。朝鮮を支配、満州事変を引き起こし、中国、アジア全域への侵略を進める日帝の野望がこれらの歌にこめられていた。

 千さんは民族心の強い父の期待に応え、猛勉強に励み、東京府立第一師範学校予科女子部(夜間)に進学。昼は日本電気に職を得て、夜は学校で懸命に学んだ。

 日本敗戦の年の3月のある日。師範学校の教師に呼ばれた。「いままで、いっぱいうそを教えてきた。やがて日本は滅び、朝鮮民族は解放されるだろう。あなたは祖国の未来のために尽くすべきだ」と大切に持っていた朝鮮の著名な歴史家の著書をくれたという。

 学校を中退し、青年学校の門をたたく。やがて到来する新時代の主人公として、朝鮮の言葉や文字、歴史や文化を懸命に学んだ。父も後押ししてくれた。時代の激変のなかで朝聯、女性同盟、総連の結成とめまぐるしい歳月が流れていった。

 「東京での講習会が忘れられない。社会主義朝鮮の建国、そして、若き指導者金日成主席のはつらつとした姿。聞くものすべてが新鮮で、感動と興奮の日々だった。これからの女性はもっと社会に進出し、在日朝鮮人運動の力強い担い手になるべきだと講師に励まされたとき、未来がパッと明るくなるようだった」

支部に寝泊り

 夫の李東承さんとの出会いは、60数年前、東京で開かれた朝聯主催のサッカー大会がきっかけだった。東承さんは福島チームを引き連れ、東京に暮らす千さんは大会のサポート役だった。解放後、雨後のたけのこのように次々と結成されていく朝聯の地方組織。そんな時代を背景にして、2人は出会うべくして出会った。「まだ20歳前。結婚なんて考えたこともなかったが、両親が決めたこともあって」と振り返る。

 会津若松で所帯を持った2人。夫は総連会津若松支部副委員長、委員長などの重責を務め、妻もまた女性同盟同支部委員長、福島県本部委員長(非専従)に就き、運動の牽引役を果たした。

 「初期の頃は、夜同胞宅に電話を入れただけでも、電話に出た夫が、妻を電話口に出してくれないこともあった」

 「日本の人たちへの働きかけも重要な活動の一つ。議員さんや町の有力者に会いにいくときは、身だしなみもパリッとして。会食のため、家で何度もとんかつを作って、フォークとナイフの使い方を練習した」 

 組織ととともに歩んだ日々。広い県内をカバーするのに、支部の事務所に寝泊まりしながら同胞の家を一軒一軒訪ね歩いた。「『ケシムニカ(御在宅ですか)?』ってね。遠くからよく来たと笑顔で迎えてくれた」と。

 厳しい姑に仕え、「家」の重圧に打ち克ちながら、女性同盟の活動にまい進し、自己解放への努力を惜しまなかった。

 今一人暮らしの日々のなかでも、常に新聞を読み、読書に勤しむ。遠くに住む子どもや孫たち、地元の同胞らが訪ねてくれるのが何よりうれしい、とほほ笑む。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2010.8.6]