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〈100年を結ぶ物語・・・人々の闘いの軌跡・・・A〉 元祖 平壌冷麺屋四代

創業者精神を永久に刻む

本店を切り盛りするのは女性たち

 祖父母が懐かしい故郷を追われて74年。すぐ帰ってくるつもりが、植民地、分断、戦争、離散のなかで、生きて再び、帰郷の夢はかなわなかったが、「民族を取り戻し、苦闘の末に、やっと3代目で、祖父母の魂を故郷に戻すことができた」と胸を張った張秀成さんと張一成さん。

 平壌で冷麺屋のでっち奉公をしていた祖父の張模蘭さんが全さんと婚約したのは1926年。親が決めたもので、写真でも相手を見たことがなかった。2人は平壌では会えないまま、張さんは仕事を求めて日本へ。翌年、全さんも後を追って神戸に来た。ここで結婚式をあげた。

 2人はひたすら働き、暮らしの根をおろしていった。5男1女に恵まれて、必死に子どもたちを食べさせた。そんなある日、張さんの知り合いが平壌から麺を押し出す筒を持ち込んだ。記憶の奥に眠っていた懐かしい光景が2人を包み込んだ。

 「麺食い腹は別にあり」と言われるほど冷麺は朝鮮では特別のメニュー。ムルキムチをベースにした、さっぱりした透き通るようなスープ。夫婦は「もう一度、あの故郷で親しんだ冷麺が食べられたら…」と、思いはふくらんでいくばかりだった。

 夫と2人で寝ても覚めても冷麺作りに打ち込んだ。そば粉とでんぷんを分量分合わせ、工夫に工夫を重ねて、もう数え切れないほど失敗を繰り返して、いまの味を作り出したのだ。

客が長蛇の列

店の名刺に刷られた創業時の店の写真

 1939年、長田に神戸で初めての「元祖・平壌冷麺屋」1号店を出した。まず、釜に薪で火を入れるところから始めたので、お客も待つ時間が長かった。それでも、客は懐かしい平壌冷麺の味を求めて他府県からも押し寄せ、長蛇の列を作った。

 「珍しくてね。今は機械で押し出すけど、平壌から取り寄せた筒だと自分の体重をかけて、ともかく力が要って。男手がない時は、お客さんに手伝ってもらった。みんな冷麺食べたいから必死だったね」。全さんは生前、こう懐かしそうに語っていた。

 「今回の平壌訪問でわかったことがあった」と一成さんが語るのは、この祖母の記憶のとおり、当時の平壌には『冷麺下ろし機』が地域に一台ずつ置かれ、冠婚葬祭には必ず、振る舞われていたということ。「金日成主席の万景台の生家でこの機械を見つけたときは、本当にうれしかった」と話す。

今は100人を超える大家族

 店の繁盛の基礎が固まった頃、長男がやはり同郷の女性と結婚。その後、孫たちにも恵まれ、商売も軌道に乗り始めた。そんな頃、苦労を重ねた張模蘭さんが亡くなった。享年57歳。

 全さんには「泣く暇もない」ほど忙しい日々が残された。末っ子はまだ小学生だった。それからはるかな歳月が流れ、祖父母の汗の結晶である冷麺店はいまでは、神戸に5軒、大阪に1軒、横浜に1軒と増えていった。子孫も繁栄し、「孫は20人、ひ孫は35人、玄孫は6人かな、ちょっとわからない」と張一成さんは苦笑する。そこにつれあいまで数えるとゆうに100人以上の大家族である。

 すでに長男、次男、四男が他界したが、長男のつれあいの金栄善さん(78)、次男のつれあいの文春子さん(70)を中心に、祖父母の教えを堅く守りぬき、店を盛り立ててきた。商売が順風満帆であるほどに、思い出されてくるのは、祖父のことだった。朝鮮戦争勃発後、故郷に残した家族との音信が途絶え、亡くなるまで家族の行方を気にしていたという。

 「祖父は故郷の出身者のつながりを大切にして、『大同会』を作り、故郷の思い出話に花を咲かせ、みんなで年に一回旅行に行くのを楽しみにしていた」と秀成さん。

 店の名刺に創業時の冷麺下ろし機と店の佇まいを刷り込んだ一成さん。故郷を離れ、日本にやってきた祖父母の創業者精神を永久に忘れまいとする心意気である。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2010.8.4]